小説

『笑う男』矢澤準二(『猫町』萩原朔太郎)

 卓郎はとにかくこの通りを最後まで歩いてしまおうと思った。両側の店が尽きたあたりの角を右に曲がれば、観音様の境内に向う道だ。その道は、これまで、数えきれないくらい何度も通っている。
 道の途中に木馬館がある。今は大衆演劇の演芸場だが、かつては、本当の木馬館だった。卓郎のかすかな記憶の中に、板張りの床のホールの真ん中で、子供を乗せた何頭もの木馬が、音楽に合わせてぐるぐる廻っている光景が残っている。
 木馬館の斜め前あたりに、見世物小屋があった。小屋の前に、止まり木のようなT字型の棒が立っており、鎖に繋がれた子猿が、てっぺんの横棒に掴まっていた。小屋の正面の壁の上部に、蛇女や大入道のおどろおどろしいペンキ絵の、大きな看板がかかっていた。小さかった卓郎は、夢に出てくるのが怖くて、いつも看板を見ないように、その前を走って抜けた。
 仮に、今いるこの場所が、昭和三十年代初めの頃の世界だとすれば、木馬館も見世物小屋も、この通りを曲がった先に、当時のままの姿で、存在しているということになる。それもいいじゃないか。もう、蛇女や大入道の看板を、怖がる歳じゃない。それに、あの道は短い。見世物小屋の前からは、観音様の本堂の屋根が見えるはずだ。本堂の正面の仲見世を雷門まで歩けば、左方向に銀座線の入口が見える。銀座線に乗りさえすればきっと、元の世界に戻れるに違いない。卓郎は、そう信じた。
 両側の店のテントの中には、裸電球が煌々とついていたが、客は一人もいないようだった。通り全体が静まり返っていた。卓郎は、水溜りに注意しながら、ホッピー通りを歩いた。
 もう少しでホッピー通りが尽きるところで、なんの気なしに左を見ると、店と店の間に、細い路地があった。その路地に、三頭の犬がいた。卓郎は立ち止まって、その犬たちを、もっとよく見ようとした。
 二頭の犬は卓郎の方に尻を向けていた。二頭の内、奥の方にいる一頭は、大柄でがっちりとした、黒い犬だった。尾をピンと立てていた。そのさらに奥に、卓郎の方に顔を向けて、一頭の犬がいた。身体全体の白っぽい毛が、禿げたように薄くなっていた。黒い犬は、白い犬に向って、低くうなっていた。白い犬は、怯えたように、尻尾を股の間に挟んで、後退りしていた。
 白い犬の後ろに、焦げ茶色の大きな木製のゴミ箱があった。白い犬はゴミ箱の脇の板に追詰められると、上を向いて、遠くにいる仲間に訴えるように、吠えた。その残響が消えた頃、声に応えるように、いくつもの犬の遠吠えが、重なるように聞こえてきた。
 その声が一段落すると、今度は黒い犬が、月を見上げるように顔を上げ、力強く伸びのある声で、長く長く吠えた。その声が終わると、さっきと反対の方角から、たくさんの犬の遠吠えが、風に乗るサイレンのように、響いてきた。
 卓郎が幼い頃は、鎖に繋がれていない野良犬が、町の中を自由に歩き回っていた記憶がある。今聞いた遠吠えは、そういう野良犬の集団のものなのではないだろうか。そうだとすると、白い犬と黒い犬は、別々の集団の仲間なのだろう。今朝の日暮里駅の出来事は、その二つの集団の抗争のきっかけで、二つの集団は、これから戦争でも始めるつもりではないか。

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