小説

『笑う男』矢澤準二(『猫町』萩原朔太郎)

 上野駅に着いた。男がドアに向った。卓郎も男に続いた。上野駅は常磐線の始発駅なので、いつも帰りの電車は上野駅から乗る。男も同じとしたら左に向って歩くはずだ。男は、右方向に歩き始めた。相変わらずスマホを持っている。首を前に傾けているから、小柄な後ろ姿が余計小さく見える。卓郎は腕時計を見た。まだ十一時に間があった。気がついた時、卓郎の足は右に向っていた。
 十メートルくらいの距離をとって男の後を歩いた。俺は何をしているのだろう。頭の中にそんな声が聞こえたが、足は止めなかった。少し寄り道をしても、終電までは余裕がある。あの男についていけば、今朝の日暮里駅の出来事の顛末が判るかもしれない。もう一つの声がそんなことを言った。気分よく酔った頭には、後者の声の方に説得力があった。
 男は中央の改札口を出て左に行き、地下に下る階段を降り、銀座線上野駅の改札を抜け、浅草方面行きのホームに降りた。その間ほとんどスマホから顔を上げなかった。さすが柴犬だ。目で見なくても、道筋は匂いで判るってか。
 電車がホームに入ってきた。男は先頭の車両に乗った。卓郎もそれに続いた。電車は空いていた。男はシートの端に座り、相変わらず俯いてスマホを見ている。卓郎は男と対角線になる反対側のシートの端に座った。
 男が終点で降りたら面白いと思った。浅草は卓郎の故郷だからだ。生まれてから、大学を出て就職するまで、そこに住んでいた。建物の大半は建て替えられて新しくなったが、道筋は、卓郎が小学生だった昭和三十年代前半と、ほとんど変わっていない。卓郎は、目隠しされてどこかに置き去りにされても、目隠しを取れば瞬時にその場所を指摘することができるくらい、浅草の地理には詳しい自信があった。
 電車が終点に近づいた時、急に車内が暗くなった。今時めずらしいな。卓郎は昔のことを懐かしく想い出した。卓郎が住んでいた頃、銀座線では、車内の電灯が消え、ドアの横の壁の補助灯だけになる区間があった。浅草駅が終点なので、空いている番線に入るため、線路の切替えがある。その時一時的に電気が来なくなる区間があったのだろう。でもそれは昔の話で、今は地下鉄に乗っていて車内の電灯が消えることはまずない。数秒後車内はまた明るくなった。気のせいか、卓郎は、明るさの程度がさっきより低いように感じた。なんとなく周囲の光が黄色っぽく見える。
 電車はそのままホームに入った。ドアが開き、男は改札口に上る階段の方に歩いていく。もう手にスマホは持っていない。改札口に、制服を着た、変に茶色っぽい顔をした駅員が立っていた。自動改札が故障中なのだろうか。卓郎が財布を開いてスイカを見せようとすると、駅員は何も言わずに、通れという風に右手を振った。
 改札口を出て左方向の、地下街に向う通路に、男の背中が見えた。卓郎は二十メートルくらいの距離を開けて後を歩いた。地下街といっても数十メートルの通路でしかない。その両側に飲み屋や寿司屋の古ぼけた入口が並んでいる。そのたたずまいは、卓郎が子供の頃とほとんど変わっていない。
 地下街のつき当りの左にある狭い階段を上り地上に出た。出たところは新仲見世の入口付近だ。新仲見世は土産物屋というより、洋品店や食堂や本屋などの並ぶ、普通のアーケード商店街に近い。この時間、両側の商店のシャッターは、すべて閉まっている。だから通る人はほとんどいない。

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