小説

『あめゆき』緋川小夏(『雪女』)

 それが意識を失う前に母が娘に遺した、最期の言葉だったそうだ。
「お母さんがね、すっかり痩せて骨の形が浮かび上がった小指をあたしの前に差し出して、指切りしてくれたんだ。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます……ゆびきった。ハンコぺったん!って」
 娘は唄いながら目を細めて、愛おし気に自分の小指をそっと撫でた。
「そういえばお母さんの手って、いつもすごく冷たかったな……冷え性だったのかなぁ」
 雪は更に強さを増して、窓の外の木々や花壇を白く染めてゆく。春に芽吹いた新しい生命たちは身を寄せ合いながら、季節外れの雪と寒さに必死に耐えているように思えた。

 娘が生まれたのも、こんな花冷えのする寒い春の日だった。薄日が差しているのに粉雪が舞っていて、おかしな天気だと、付き添ってくれたナースも首をかしげていたのを懐かしく思い出す。
 当時、就職したばかりのわたしの職場は都心にあった。通勤のため、ミユキには山から下りてもらいマンションで一緒に暮らすことになった。気密性の高い現代建築は雪女にとって負担が大きい。それでもミユキは人間の生活に慣れようと頑張ってくれた。
 そして結婚して、小雪が生まれた。わたし達三人は傍から見ればきっと、どこにでもいるごく普通の家族に見えただろう。慌ただしく過ぎ行く日々の暮らしの中で、わたしもミユキが雪女だということを忘れていた。
 ただ一年中、半袖のTシャツ一枚で過ごしていたので「薄着の奥さん」とマンション内で有名だったことを除けば。
 ミユキを都会に連れて来たことは間違いだったのではないか、と今でも時々思う。それでもミユキはいつも笑顔で、家事に育児に奮闘してくれた。
 幸せな日々は長くは続かなかった。過度のストレスが少しずつミユキの体を蝕んで、だんだんと横になっている時間が増えていった。
 ミユキが息を引き取ったのは大雪が降った明け方だった。
 夜中じゅう降り続いた雪がぴたりと止んだ、痛いくらいに神秘的な朝だった。電車もバスも始発から運休していて何の音も聴こえない。やがて静謐な空気を切り裂いて差し込む朝の光に誘われるように、わたしと娘に見守られながら静かに天へと召されていった。

「あれ、お父さん? もしかして泣いているの」

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