小説

『ながやつこそ』戸上右亮(『粗忽長屋』)

 しかしそれから数週間もすると、白川の存在はそれほど邪魔でもなくなっていた。というより、白川の反応をむしろ楽しみにしている自分がいた。私に憧れていたというのはどうやら本当だったようで、白川は何かにつけあの半角英数字スマイルをくっつけてコメントするようになっていた。あこがれちゃいます、うらやましいです、私もKOSOさん目指してがんばります。
 あの日、オフィスで私に話しかけてきたのは単なる気まぐれだったのだろう。元の通り私とすれ違っても軽い会釈をするだけになっていたが、ピクトダイアリーの中では私への好意を隠さなかった。常に周りの注目を集め、ちやほやされているあの白川が、私を憧れの目で見ている。ピクトダイアリーの中にいる、本当の私を。それは学生の頃から常に目立たない存在だった私にとって、震えるほどの快感だった。

「もう、フレンチってほんと危険。ハイパーカロリーだわワインは進むわで、ここ数週間のダイエットが一日で無駄になっちゃいそう。みんな、シャローグラスのコースには気を付けて。私はもう、今日のディナーだけで3キロは増える覚悟してる(笑)」
 その日も私は、手のひらほどもあるフォアグラのステーキと、1973年もののワインの写真をアップロードしながら、自分の部屋で夕食を味わっていた。
「うらやましすぎます! 私なんて今日も独りで鍋物なのに~(涙)」
「KOSOさんにダイエットなんて必要ないですよ! いつも素敵です」
「まさか、あのシャローグラスですか?」
 フォロワー達から秒単位で寄せられる羨望のコメントは、まるで媚薬だ。発泡酒で流し込む百円のハムカツですら、舌もとろける甘美な味わいに変えてしまうのだから。
 うらやましいです、素敵です、いつかご一緒してみたいです。そろそろ聞き飽きたお決まりの誉め言葉の中に不穏なフレーズが混じり始めたのは、日記を公開して数分が過ぎた頃のことだった。
「シャローグラスって、いま火事になってるビルにありませんでしたっけ?」
「心配です。今はいらっしゃいませんよね?」
「もっと前のお話をアップされてるんですよね? そうですよね?」
「KOSOさん、ご無事ですか? 心配です」
 まさか、そんな。
 こんな時に限ってテレビのリモコンが見当たらず、ベッドの上に積まれたぬいぐるみの山を手当たり次第に投げ散らかした。クマ、ウサギ、イヌ、何か、リス、宇宙人、オスネズミ、メスネズミ、パンダパンダネコパンダネコネコパンダ。何かが発泡酒の缶を倒し、テーブルの上が黄色い炭酸の海になり柿の種を濡らすが、そんなことに構っている暇はない。今はリモコンが先決だ。しかし、ぬいぐるみの山がきれいになっても、そこに埋もれていたはずのリモコンは出てこない。
 おちついて、おちついて。まずは深呼吸しなきゃ。

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