横断歩道の真ん中で、足を止めて上を向く。慣れない”東京”。道路のチリが舞い上がり、空は曇って見えた。
斜め後ろを歩いていたやつは、スマホを見ていたこともあってか、大げさに肩をぶつけて通り過ぎて行った。しかめ面の老人、小汚い女子高生、間抜けな顔をして女性の腰を撫で回すチャラそうな男。ビルについている大きなモニターは、ヒットチャートのランキングを流し続けている。賑やかを通り越した声の不協和音、車のエンジン、ガサツにぶつかり合う工事現場の鉄骨の音。そのどれもが”東京”で、僕だけが明らかに”東京”でなかった。
「やっぱり、帰ろうかな」と小さく呟いた。異様なほどに心拍数があがっている。やっぱり、一人で来たこと自体が間違いだったのだ。信号がチカチカと光り始めて、いっせいに周辺の人たちが走り始めた。引き返そうと半身になりかけていた僕は、押し寄せる”東京”の波に飲まれるように、元どおり前に進まざるを得なくなった。信号は赤になった。もう後戻りはできない。
はじき出された僕の目の前には、臭気が立ち込めるセンター街の入り口が反り立っていた。右手側のコーヒーショップの前には、嘘くさいやつらが我が物顔で突っ立っていて、なんでもないような顔をしてナンパを待つケバケバした女や、熟した柿のような臭いがするみすぼらしいやつら、おんなじような顔をしたクマみたいなゴロツキが切れ長の目をギラつかせている。
それでもやっぱり、やつらは向こう側のような気がした。この街に、”東京”じゃないのは僕だけなのだ。だけど、それも今日で終わりになるかもしれない。そう考えると、少しだけ背中が伸びるような気がした。
「オスキナ・ママ?なにそれ」
僕はシャンプーの段ボールを開けるのに苦戦しながら、自慢気に語る”G”の話の腰を折った。Gは数え切れないぐらいに年上で、僕ら薬局のバイトたちの中では信頼のあるリーダーみたいな存在だった。バックルームで品出しの準備をしながら、パートや若いバイトちゃんたちに、どこから仕入れてきたのか七不思議みたいな話をして笑わせるのが、Gの日常だった。
「人だよ。オスキナって名前の店があって、そこのママの話」
「うん、聞いてた。そうじゃなくて、その人がなにしてるって?」
Gは、嬉しそうにニヤっとした。休憩から戻ったばかりで、手に持っていた緑色のマルボロの箱をくるくると回している。Gは誰も知らないネタを見つけてくるのが、そしてそれを自慢げに喋り散らすことが大好きなのだ。
「だからさ、オスキナっていう渋谷の店があるんだよ。そこのママがさ、どうやらすごい能力の持ち主らしくて。店にくるのはだいたい自分に自信をなくしたやつらばっかりなんだけど、その店にいった奴らはみんな決まって社会で一旗あげるんだって」
ふうん、と僕はコンディショナーの箱を開けるのに取り掛かった。少しだけ手元が震えて手こずった。
「それで、そのママさんの能力って?」
「さあね。わかんないけど、一説では相談しにくるやつらの望みを24時間だけ叶えるらしい。たとえば英語を喋りたいと思うだろ?24時間だけは喋れるようにしてくれる的な。そんな感じみたい」