小説

『20歳の夏休み』菊谷達人

「おい、おきろよ」
 凧にゆりうごかされて、僕は目をひらいた。目の周囲がまだふやけたように火照ったが、頭はわりとすっきりしていた。
 夕食事にはまだ、窓からのぞく庭には遅い午後の陽射しがひろがっていたのが、いまその窓にはべたりと闇がはりついていた。
「圭華さんは」
「さあ、おれがめざめたときにはもう、ここにはいなかった」
「風呂でも入っているのかな」
「しらないふりして、風呂場をのぞいてみようか」
「逆鱗にふれて、帰れっていわれたらどうする」
「それもそうだ」
 二人はしばらく耳をすましていたが、湯の音もきこえてこないし、風呂に入ってないことはたしかのようだったので、圭華を探しに廊下にでた。
 廊下をまがった部屋の、閉められた襖の隙間から、明かりがもれているのがわかった。
「圭華さん」
 ぼくはよびかけてみた。しばらくまっても返事がない。
「あけてみろよ」
 凧がぼくをけしかけた。
 ぼくはもういちど声をかけてから、襖に手をかけた。もしかして寝ていたら、すぐにしめるつもりでいた。
 圭華は、部屋の中央に、座っていた。
 浴衣を着ていた。両目をうっすらとじ、組んだ両脚の片方をもう片膝にかけていた。裾が大きく割れ、曲げた膝の肉がそこから露わにのぞいていた。
 二人が入ってきても、沈黙している彼女に、ぼくにはすぐ、車のなかで圭華がいっていたそれが、自己暗示の訓練だとわかった。
 一度は声をかけようと、弾力あるマット上に座る彼女にちかづいたぼくだった。浴衣の衿からたちのぼる湯上りの匂いが、ぼくの鼻をかすめた。圭華はぼくが前に立っても、なんの反応もしめさなかった。
 ぼくは目で、ここをでるよう凧をうながした。彼もすぐ、ぼくといっしょに、ふたたび廊下にでた。ふたりとも、肩でおおきく息をついた。心臓が激しく鳴っている。まともに話しができるようになったのは、ぼくの部屋に二人もどってからのことだった。
「えらいものをみたって感じだな。いまだに目にやきついてるぜ」

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