小説

『銀の鱗と蝋燭と』もりまりこ(『赤い蝋燭と人魚』『浦島太郎』)

<ガンゼキバショウ>という貝殻で。触れただけで何処かへまぎれてしまいそうなぐらいな白を纏ったものだった。
 貝殻のいちばん下はおそろしく尖っていて、その尖ったものが千手観音のようにからだから生えている。その尖った貝のからだの一部がなにかを救おうとしているのか救われようとしているのかわからないけれど、なんとなく祈りのかたちにみえてくるそんな風情の貝殻。
 母親に産み落とされて、海の中を漂っていた時にいちどだけこの貝殻と出会ったことがあることを思い出した。海の底にそれが横たわっていた時、手にとって見た時の切ないぐらいの頼りない軽さと、微かに匂う潮の香りが、わたしのどこかを締めつけてくるようで、産まれたばかりのわたしはすでになにかに邂逅している気分になっていた。仕上げている時、ふとあそこに帰りたりという思いが過ったのだ。最後の仕上げを終えて、<ガンゼキバショウ>をじっと見てると、千手観音の手にみえるところが何か手招きをしているように見えてくる。
 洗面所にいって手を洗う。絵具や蝋の削りくずが指にこびりついていた。ふと顔をあげると、目の前にあったはずの鏡がなくなっていた。いつのまにか太郎が取り外した跡がうっすらとみえた。
 理由はわからなかった。部屋のあたりを見回すと鏡がすべてなくなっていた。傘の上を雨音がすべって落ちてゆく。喉が渇いていることに気づいて、水道で手と口とすすぎながら、ふいにロウソクに絵を描く仕事を少しだけ休みたいと思った。傘の上をおちてゆく雨音を聞いていたら、海がなつかしくなった。気づくと、わたしは海の中にいた。水のふたしかな輪郭の中で泳ぐ魚がそこにいて。さかなは、かたちがあるようでない水をまとって。世界中のさかなたちが、そうやってとりとめのないほねのないものに身をゆだねながら、はてしない時間を越えて揺らいでいる。でもこの場所に身を沈めたせつなわたしはひとつの約束をしたことが鮮明に甦った。
 いちど陸にあがった人魚が海に戻ったら、ふたたび陸に上がることは許されないと、海の神様と約束していたのだ。

 太郎は、おるふぁんを失ってからじぶんの身体が若返っているのが、いやでもわかるぐらいになっていた。なにしろ、今まで履いていたたチノパンはだぶだぶだし、筋肉も落ちて、まるで少年のような体になっていた。今は半ズボンで過ごしている。
 桟橋のあたりで声がする。
「太郎、ちゃんと世話しなきゃだめでしょ。せっかく飼ってあげたんだから」
 母の声だった。
「ほら、来てみろ、太郎。こんなにハマオモトの葉を食べるようになってるよ」
 父の声だった。
 あの日、<竜宮城>へ行く前に別れたはずの父と母が、太郎を呼んでいた。
 300年の月日が、こんな形でもどってきていたのだ。

1 2 3 4 5 6 7 8 9