小説

『燃ゆ音』海老原熊雄(『かちかち山』)

「挨拶っていうと”こんにちは”するだけのんかね」
「それもわからんのよ。山守について嶽家に伝わっとるんは、”獣争わば、鳥を撃て”っちゅう言葉だけなんよ」
「はあ、そいだけじゃなんも分からんなあ」
「そうやろ?父さんも挨拶行ってこい言うて、あとは仔細預かり知らずってなもんや」
「そいでよう十代も続いてこれたなあ」
「ほんまやなあ」
「あんたはまた、そんな他人事みたいに」
「そうやね、全く困った家系や」
「長生きする性格やわ」

真夏の群青色に、少女の紅潮した体温が紅を引いていく。
自転車は一直線に山麓を目指す。
山守を継いだものは、かち山頂上にある社に挨拶を、というのが習わしだった。
豊かな森は、少女に徒歩での通行を促す。
「あかん、死んでまうかもしれん」
細腕に痩躯。
舗装のされていない山道は、右に左にうねり、月子の身体も右に左にふらふらと振り回されながら登っていく。
ぽつりぽつりと汗が地面に滲む。
「昔はよう遊びに来とったっけ」
少女の時分には、良蔵に連れられ山間を駆け抜けていた。
苔生す不気味な石像や、森羅万象の祖の様な大樹。そのどれもが月子にとっての原風景だった。
「おひさしぶりさんやなあ」
疲れ身ついでに、そっと手を添える。
鬱蒼と茂る緑の山頂に朱色差す、社。
「ようやっと着いたわ」
礼をふたつに、柏手ふたつ。そして礼をひとつ。
「山神さん。山守になった月子いうものです。今後ともよろしくお願いします」
しんとした山間に、月子の挨拶が虚しく消え入る。
「これで終いかな」
ふと、一陣の風が吹く。
「なんや、気味悪いなあ」
こぢんまりとしつつも、荘厳とした雰囲気を湛えている社には、小窓が設えてある。
「ここ、開くんか」

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