だから、僕が妻を連れて桜を見に行っても、何の問題もない。
僕らは夜を待った。
日が暮れるのを待ちながら、けれど僕は密かに妻が考えを変えるのだろうと思っていた。一日の間に彼女が何度も言葉を翻すところなんて、もう飽きるくらいに見てきたのだ。
予想を裏切って、妻は約束を守った。喚いたり、癇癪を起して物を壊したりもしないで、ベッドで静かに横になっていた。余りの大人しさに、母なんて目を剥いているくらいだった。
そうして、夜が来た。
妻は最後まで、やっぱり行かない、とは言わなかった。ただ、車椅子に乗る事のだけは嫌がったから、僕がおぶって行く事にした。慣れないやり方で、乗り心地なんて良くないはずなのに、妻は何故か何も言わない。まるで老木を背負っているような気分になった。
玄関から出ると、風が吹き付けてくる。身震いするような冷たさだったが、僕にはありがたかった。背負った体から漂う異臭を吹き散らしてくれるからだ。
風に吹かれながら点々と街灯の光る道路を歩く。僕らの他に人はなく、車も遠くにエンジンの音を聞くばかりだ。通り過ぎた団地の窓から漏れる明かりは仄暗い。いくつも見える真っ暗な窓が、一層目立つように思えた。
妻は何も喋らない。
僕も何も喋らなかった。アスファルトに引かれた白線を辿るようにして、ただ歩き続けた。
そのまま進んでいると、やがて白線以外の白が目につき始めた。小さくて薄いものが集まって、小さな島をいくつも形作っている。桜の花びらだ。
僕はゆっくりと空を見上げた。白い花を付けたいくつもの枝が、風にざんざん揺れている。
気が付けばもう、満開の桜の下にいた。
桜が風に煽られて、波打つように揺れている。並んだ木々が花で膨れて繋がって、照明の光を含んだ白い山をざあざあと揺さぶっている。公園の中心に建てられている、鏡張りの太い柱を持った時計塔だけが、厳然と動きを止めていた。
その風景は、どうしてかとても荒涼としているように僕には見える。春の花の盛りなのに、寂しく荒れ果てているように思える。
公園の入り口に立ったまま、ぼんやりと眺めていた僕は不意に納得した。
こぼれた花が黒い地面に積もっているのが、名残雪に似ているのだ。日陰にうずくまって、しつこく残り続けた雪。吹き散らされる花が桜吹雪と呼ばれるのも頷ける。