まるで鬼だった。
僕は馬鹿みたいに突っ立っていた。そうして唯々、鬼の哄笑を浴び続けていた。
鬼が蹴ったごみ袋から、丸々太った蠅が飛ぶ。気付けばまた、春になっていた。
昼に出歩いたからだろう、妻は珍しく早めに眠りに就いた。僕はその機会を利用して、母に考えを打ち明けた。
「妻をホスピスに入れようと思う……。今からでも、探せばきっとどこかに空きがあるはずだから」
考えといっても、殆どただの思い付きだ。どこに施設があるのか、どのくらい費用が掛かるのか、それすらまだ調べていない。
とにかく僕は、妻をどこかへやってしまいたかった。
僕の提案に、母は反応を示さない。足を庇いながら布団を敷くその背中は、酷く草臥れて小さく見えた。父が死んだ時よりも、今の方がずっと萎れている。
あの時はまだ妻が元気だった。母を支えてくれていた。僕も母もずっと感謝していて、妻が病気になった時に、彼女を支えようとしたけれど。
母が、長い長い溜息をつく。疲れきって、感情もなくなった、カラカラに乾いた溜息だった。
「あんたの好きなようにしなさい」
抑揚のない声で、母はそう答えた。続く言葉はなかったし、振り返りもしなかった。相談するのも、話をするのも、拒絶しているようだった。
僕は逃げるように、母の部屋を出た。
家の中は暗く、シンと静まり返っている。まだ夜の七時を回った頃なのにまるで真夜中だった。
足音を忍ばせて歩きながら、小さく縮んでしまった母の事を思う。
きっと母も限界なのだ。歩く度に妻から罵倒をされていたら当然だろう。病気になる前だったら労って貰えた足は、今では癇癪の引き金だった。これ以上介護を続けていたら、母まで早晩倒れてしまう。そうなったら僕ではもう支えられない。
濁った寝息を立てて眠っているだろう妻の事を思う。優しくて綺麗だった彼女の事を思い出す。みんなの中心にいて、憧れを一身に集めていた。けれどあんなにいた友達に見捨てられ、僕にまで手放されようとしている妻。
唐突に、家の中にいるのが嫌になった。とにかく外に出たくなって、僕は縁側から靴も履かずに庭へと飛び出した。
ひんやりとした夜気に出迎えられる。体に染みついた臭気が洗い流されて、少しの間だけ清々しい気分になった。
だけど、庭へ逃げても何の意味もない。