小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 多分、これが死臭というものなんだろう。
 僕の家は、もう、安らげる場所じゃあなくなっていた。

 とうとう会社を馘にされた。
 最初の頃は妻の病状を心配してくれていた上司は、「もっと奥さんに寄り添ってあげなさい」と声ばっかりを優しくして言った。
 妻が入院していた頃から、僕を見る目が段々冷たくなっているのは知っていた。きっと見舞いを理由に残業を断り続けていたからだ。介護疲れの所為か、些細なミスが増えてきた事もある。同僚たちの態度も、日に日に冷たくなってきていた。
 迷惑を掛けているのは解っていた。それでも、妻の病気さえ良くなれば、失敗だって取り返せるはずだと思っていた。
 だけど、妻はもう良くはならない。
 きっともう、潮時なのだ。そう思わなければやっていられなかった。

 まだ日の高いうちに帰宅すると、珍しく妻が起き上がり、玄関まで出迎えてくれた。
「おかえり。早かったじゃないの」
 僕は動揺して、返事ともつかない声を絞り出すのが精一杯だった。考えていたのは、僕の失職を知った妻が何をするかという事だけだ。
 僕は無理矢理に口の端を持ち上げて、咄嗟に考えた作り話を伝えようとした。
「長期の休みを貰ったんだ、君の看病に専念できるように……」
「うそつき」
 けれど、妻が遮った。
「馘にされたんでしょ」
 僕は、ぽかんと妻の顔を見返した。
 妻は笑っていた。
 ニヤニヤと顔全体を歪めて、僕を嘲笑っていた。
「なに気取ってんのよ。役立たずの癖にさ!」
 妻は声を上げて笑う。僕はただ、彼女をぽかんと見ていた。
 地肌が見えるほど抜けて、まだらの灰色になった髪を振り乱して笑っている。僕の母より、よっぽど老いさらばえた妻。
 夫の馘首を喜んで、垢で青黒く汚れた顔を裂いて黄ばんだ歯と白くなった舌を見せつけてくる。優しくて綺麗だった、かつての面影はまったく無い。

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