小説

『オカシノオウコク』洗い熊Q(『ヘンゼルとグレーテル』)

 令子の姿を見ながら考え込んでいた真理子の懐が小刻みに揺れた。携帯電話だ。
 取り出し着信画面を確認すると、慌てて部屋を出た脇で電話を取った。
「もしもし?」
「――もしもし。今、大丈夫かな?」
 電話の相手は真理子の恋人の智之だ。
「どうしたの? 智之さん」
「――いや、次の休みに出掛けられないかと思ってね」
「ああ……次の……」と真理子は歯切れ悪く、そして俯いた。
「――難しいの?」
「……ごめんなさい」
「――最近、ずっとそっちに掛かり切りだね」
 真理子は無言で答えるしかなかった。ここ最近、職場を優先し、智之には割を食わしていた。
「――ごめん。君を困らせるつもりじゃないんだ」
「……智之さん」
「――君の仕事は立派だよ。だから僕は待っている……都合が付きそうなら連絡してね、君から」
「……ありがとう、智之さん」
 そう言って電話を切った。
 真理子は携帯電話を胸元に置いて感謝した。智之に。
 いつも都合が付かない自分に電話をくれる。待ってくれている。
 恋人の優しさに少し癒された真理子。部屋に戻ろうと振り返った。
 振り返った瞬間、ハッと驚いた。襖脇から覗くようにこちらを見つめる令子がいたからだ。
「……まりこさん、どっかいっちゃの?」と令子が静かに聞いてきた。
「えっ?」
「どっかいっちゃうの?」
 不安そうに見える令子の表情。
 だが瞳は何者に囚われない、黒水晶の様な鈍く光る色。底知れない闇だった。
「……ど、どこも行かないよっ。大丈夫だからね? ね?」と真理子は咄嗟に否定した。
「まりこさんのおうこくはイチゴ味でつくってあげるね?」
「え?」
「イチゴね?」
「あ、ありがとう……」

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