老婆はなかなか戻ってこなかった。腕時計を見ると一時間が経過している。ただの長風呂かもしれないが、物音一つしないのが気に掛かっていた。
嫌な予感がする。こういうときの予感はたいてい当たるのだ。そこから目を背けて逃げ出せるほどのしたたかさがあれば、もっと人生うまく行っていたかもしれない。
「クソババアめ、手間かけさせやがって」
文吾は仕方なしに、押し入れの点検口を開けて屋根裏から這い出した。大方、寒さで心臓をやられたのだろう。潜んだ先で住人が倒れるのを目撃したことが今までにも何度かあったが、そのときは壁に激しく体当たりをして、すぐに屋根裏に引っ込めば良かった。物音を不審に思った隣人が、あとは何とかしてくれる。
しかし今回はさすがにそういうわけにもいかない。物音がしなかったということは、洗い場で倒れたわけではないのだろう。ユニットバスのドアを開けると、思ったとおり、老婆が湯船に身を沈めて目を閉じていた。頭を壁にもたせかけているおかげで溺れずにすんだのだ。湯はすっかりぬるくなっている。文吾は老婆の両脇下に手をあてがって、力任せに湯船から引きずりだした。
迷いはしたものの、文吾はどうにでもなれと救急車を呼んだ。同乗などしたくなかったが、さすがにそういうわけにもいかない。薄汚れた服装が気にはなったが、この状況では誰も不審には思わなかったらしい。美術館で一緒に働く友人だと告げたら、あっさりと納得してくれた。
病院に着くと、発見が早かったおかげで命に別状はないという。微量だが、睡眠薬を飲んでいたらしかった。薬に頼る老人は決して少なくはない。大方飲むタイミングを間違えたのだろう、事件性はないからと一方的に言われた。医師も面倒だったのかもしれない。
検査入院の必要があると言われ、それなら着替を取りに行くと、文吾は早々に病院を後にした。これ以上かかわり合いになるのはごめんだった。
それでもまた老婆のアパートに戻ってきてしまったのは、奪い損ねた金のためではなかった。老婆が退院して戻ってきたときのために、せめて部屋をきれいにしておいてやろうと思ったのだ。そんな慈悲心のようなものが芽生えたことに我ながら驚きもしたが、成行きの人助けでどこか感傷的になっているのだろうと自分を納得させた。
びしょ濡れになった廊下を雑巾で拭き取り、洗い場に突っ込まれたままだった食器を洗っておいた。他にはもう、やることなどなかった。相変わらずリビングの窓は開いており、秋の風が静かにカーテンを揺らしていた。