小説

『屋根裏の文吾』末永政和(『屋根裏の散歩者』)

 隅の戸棚を見ると、日記帳が置いてあった。迷うことなく手に取り、ページをめくる。「早くあなたに会いたい」と、一番新しいページに書かれてあった。ひどく端正な字だった。ただ一言、それだけ書かれてあった。
「ちっ、色ボケかよ」
 思わず毒づいた。仏壇に手を合わせたその後で、よその爺さんと恋愛ごっこでもしているのだろう。それなら美術館でのただ働きにも納得がいく。暮らしはしみったれてても、案外人生楽しんでるんじゃないか。
 若いころなら出歯亀根性で他のページもめくって見ただろうが、今さら老婆の色事に首を突っ込む気にはならない。文吾はなぜか苛立たしさを感じて、日記を戸棚に戻すとまた屋根裏へ戻って行った。老婆が戻ってくるまで一眠りするとしよう。もう一晩だけここで過ごしたらおさらばだ。金の在処は分っている。何も慌てることはない。

 その晩の老婆の夕飯は、駅前のスーパーで買ってきたであろう惣菜とレンジで温めた冷凍ご飯、液味噌にお湯と乾燥ワカメを入れてつくった味噌汁、キュウリとナスの浅漬けだった。浅漬けは自分でつくったものらしい。文吾が自宅でつくる夕飯も似たようなものだが、あまり見ていて気分がいいものではない。これも一人暮らしの寂しさだ。
 テレビを見ながら夕飯を食べ終えると、老婆は仏壇の前に正座して、長いことうなだれていた。線香は立てないらしい。手を合わせるでもなく、じっと座り込んでいる。
 やがて文吾は、老婆が肩を震わせて泣いていることに気づいた。嗚咽まじりの嗄れ声でよく聞き取れなかったが、「ごめんなさい」と言っているようだった。
 嫌なものを見てしまった。どうせよその爺さんと遊び歩いて、今さら罪悪感にとらわれているんだろう。いい加減うんざりだ。さっさとこんなところからはおさらばしよう。

 もうじき夜の八時になる。風呂の時間だ。思ったとおり、老婆は涙をぬぐって立ち上がり、着替を持ってユニットバスへ向かった。文吾は屋根裏に仰向けになって、さっき見たものについて考えようとした。
 その時、天井穴から洩れ出していた光がふっと闇に変わった。気づかれたのか? 反射的に息を止めて体を硬直させたが、天井の下に人の気配はない。どうやら老婆が、リビングの電気を消していったらしい。節電のつもりだろうか。それともボケが始まっているのだろうか。
 リビングの窓が開け放してあるらしく、カーテンが風に揺れていた。しまい忘れた風鈴が、申し訳なさそうな音色をたてていた。満月だろうか、月明かりが部屋に差し込んでいた。
 誰もいない部屋ほど寂しいものはない。文吾は天井穴から暗闇に目をこらしながら、胸苦しさを感じていた。自分もここには存在していないような気がした。

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