もしかして、このカメはなおこお姉さんを乙姫さまだと思い込んでいるんじゃないだろうか。もし、ハンス・フォン・カメ男爵が勘違いして、なおこお姉さんを龍宮城に、連れていこうとしているのだとしたらどうしよう。
まさかと思って、カメを見た。カメは目を細めてぼくを見つめ返した。
その顔は(おや、わたしの考えに気づいたんですねぇ)としたたかに笑っているように見えた。ぼくは急に怖くなってしまった。
「ぼく、ぼく帰るよ。」
なおこお姉さんが止める間もなく、ぼくは、広い庭から走り出た。
あれから、ぼくはずっと心配している。
そして、ぼくは決心したんだ。
今日ぼくはなおこお姉さんの家にしのび込む。手遅れになる前にハンス・フォン・カメ男爵に話をつけなくてはならない。
ぼくのうちとなおこお姉さんちの庭の境には生け垣がある。そこに身をかがめれば、くぐることができる抜け道があった。
幼稚園の頃は、よくここからお隣に通り抜けて「なおこおねーさぁん」て呼んだものだ。
生け垣の冷たい露が、ぼくのシャツにしみた。髪の毛についた露をぶるんと払うと、ぼくは中庭へまわった。
カメ男爵は、夜露にぬれ黒い岩に見えた。
ぼくは、カメ男爵に目線を合わせるように四つんばいで近づいた。
「なぁ、カメよ」
ぼくは、ささやいた。カメ男爵はぴくりとも動かない。
「ハンス・フォン・カメ男爵」
と、ぼくははっきりと声をかけた。カメ男爵はゆっくりと首をもたげ、目をしょぼしょぼさせながらぼくを見た。
「ハンス・フォン・カメ男爵、わかっていると思うけど、なおこお姉さんは乙姫さまじゃないんだぜ。乙姫さまとなおこお姉さんの違いがわからないほどぼけてしまったわけじゃないだろ。人違いなんだよ。だからどこにも連れていったりするなよな」
カメ男爵は、目を閉じて首をすくめた。ぼくにはカメ男爵がふーっとため息をついたように見えた。カメ男爵はぼくの言葉が理解できたにちがいない。カメ男爵は口はうごかさなかったが、ぼくにも彼の声が届いたのだから。
(わかっていますとも。それくらいのことは。でもねぇ、偶然、浜辺を歩いていたなおこさんがあんまり昔の私の主人に似ていたもので、ついここまでやって来てしまったんですよ。なおこさんも、わたしをかわいがってくれるものだから、つい居着いちゃったんですよ。でも、それも終りにしなくちゃねぇ。そろそろ帰らなければならないかもしれませんねぇ)