小説

『ハンス・フォン・カメ男爵とぼく』おおぬまいくこ(『浦島太郎』)

 いつもの帰り道、防波堤の上を平均台のようにバランスをとって歩いていると、浜から父さんが声をかけた。
「おーい、マサキ、今帰ってきたのか」
「うーん!」
 漁船の船体を磨く手をとめてこっちを見ている父さんに、ぼくは手を振った。
「まぁた、図書館に行ってたのか?」
 と父さんは言った。
「そ」
 ぼくは、短く、そして小さな声で返事をして、また両腕を水平にして歩き出した。父さんが「まぁた……か」と言うときは決まって後に続く言葉がある。
「本ばかり読んでないで、ちっとは泳ぎの練習でもしたらどうだ? 漁師の息子がカナヅチでどうすんだ?」
とくる。
 ぼくは、五年生にもなって泳げない。漁師の息子なのに船酔いする。ぼくは自分でも父さんみたいに、たくましくていい漁師にはなれないよなぁ、と思う。
 ふっと溜め息をついたとき、向うからとなりの家のなおこお姉さんがやって来た。セーラーの時からきれいだったけど女子大に入ってから、色とりどりの服を着るようになったなおこお姉さんはほんとにきれいだった。
「あら、マサキちゃん、お帰りなさい。ね、ちょっとうちに寄っていかない? 見せたいものがあるのよ」
「え、なぁに?」
 ぼくは、なおこお姉さんに声を掛けられたうれしさで胸がどきんとした。でも、あんまり興味ないんだけど、という顔をつくろうとつとめた。
 だって、わぁいくいく、なんて言って喜んでついていくのは、もうこどもっぽいからね。

 なおこお姉さんは、おひな様のような人だ。黒くて長い髪、白い頬。
 いつだったか、お母さんとデパートに行った時、ぼくは人形売り場のおひな様にみとれてしまった。びっくりするほどなおこお姉さんにそっくりだったんだもの。きっと昔話に出てくるお姫様というのは、なおこお姉さんみたいだったに違いない。
 ぼくは、思わず手を伸ばしてそのふっくらしたおひな様の頬に触れようとした。
ピシャッ! はっとすると、母さんが目をつりあげて怒って言った。
「高いのよ! 壊したらどうするの!」

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