小説

『ケテルの羅針盤』柘榴木昴(『裸の王様』)

 敗北だった。
 いや、大きさの話ではない。打ちのめされたのだ。その、あの男の奥深くにある優雅さ、その人間性の闊達さに。
 やつは、何を隠そうペニスに花をあしらっていたのだ。現に、膝をついた私の目の前には一輪のカスミソウが儚く散っていた。あの男が股間をさらしたとき、一緒に飛び出したのだ。
「……なんと可憐な」
 それは小さくも凝縮した運命が込められていた。手に取ると花弁がしおれている。だが、カスミソウの一輪に、それもしおれた花ひとひらに、私はかつて注目したことがあっただろうか。汚されて閉じ込められた、それでも花であるこの一輪に私は完全に心奪われてしまっていた。実際その夜はおでこにそのカスミソウを貼って横になったほどだった。
 それから私は考え込んだ。あの男、あの風雅。逞しくも奥ゆかしい動作と痕跡。
 それは人に秘めさせる美、であった。私は強烈に美を叩きつけられたのだ。ヴィーナスとペニスの往復ビンタだ。私はこれまで人にこの体を見せつけるようなことはしなかった。それは奥ゆかしさに由来する。だが、華やかさはあっただろうか? 結局自己満足の個人主義ではなかったか? じつは、本当は社会に、表舞台にコミットする結果を求めているのはないか?
 よし。と私の気持ちが決まった。そうだ。私は走り出したら止まらない男だった。
 次の休みもまた、コートに裸で街を闊歩した。いや、正確には戦闘準備だった。あの男と再び会いまみえるのだ。そうだ。これは己が生きざまの戦いなのだ。例えるならギルガメシュとエンキドゥ、ヘーゲルに対するキルケゴール。偉大な力に立ち向かうとき、苦悶が私をより一個の人間にするのだ。
 雑貨屋を巡って、夕暮れを待つ。男と出会った時間より少し前から待機した。駐輪場から少し離れた路地。塀の上にカマキリが歩いている。まるで私たちの決闘の火ぶたをバッサリと切って落としてくれそうな逞しい鎌である。
 研ぎ澄まされた感性は男の出現を第六感でつかみとった。まるで何事もなかったように同じいで立ちだった。あの男はあのコートの奥に、ひそやかな楽園を称えているのだ。
 男はまったくの無感動のまま私の前まで歩いてくる。まるで何の縁もないような、興味もないようなそぶりだ。金貸しのチラシが入ったティッシュ配りを無視するような、てんで関係ない世界を態度で示している。
 私は先手必勝とばかりにコートを開いた。これは初めてのことである。私は妻以外に裸身を見せたことはなかった。妻にでさえ暗がりでしかみせなかった。そのくせ離婚してからジムに通い引き締まった体を作っていた。もう見せる相手などいないのに。もはや純粋な自己満足のためだった。秘して陶酔するためだ。

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