小説

『ケテルの羅針盤』柘榴木昴(『裸の王様』)

「すみません」
「いえいえ、どういたしまして(そっと『私、全裸なんですよ』と心でつぶやく)」
 ああ、生きている充実感。このレディめは私が秘めている精神の躍動と身体の無防備さを知らない。布一枚のところですれすれに生きていることを知らない! どれだけ集中し高揚し自負をもてるのか、それを人生の充実尺度というならば、私のコートの中は充実にあふれている。
 溢れそうな股間を鎮めるため般若心経を心で唱える。そう、己に厳しい私は自分を抑えるすべも心得ているのだ。この、躍動と冷静。神殿に舞う神楽のような神聖さである。
 それから買い物をして電車で帰る。すっかり日も暮れ、明日への栄気を獲得した私は今日も満足して薄暗い道を歩いていた。大企業の事務職として働く私は権力抗争から完全に外れていた。仕事に打ち込みすぎて妻になにもかも押し付けてしまい、その不満や子育ての苦労に気付いてやれなかった。娘がいじめられていることに気付けなかった。私はもはや夫として、父としては失格だった。妻は新しい土地でスーパー家政婦として働いている。転校した娘も今は元気に学校に通っているそうだ。
 時に離別は正解なのだ。
 そうして私はただの男として再び世間に放り出された。そしてささやかな趣味と共にささやかに生活している。
 暮れ沈む夕日は最期まで明るい。今日という日に別れを告げようとしている。だが最後の一閃まで世界に光の筋を投げかける。
 コートの内側はすっかり汗で蒸れていた。首元からむっと立ち込める私の体臭は我ながらエキゾチックでアジア的だと思う。例えるなら香辛料。それもローリエやローズマリーのようなお高くとまったものではない。コリアンダーやクミンのようなぶっきらぼうでいて複雑。とがっているのに馴染む匂いだ。
「あの、すみません」
 立ち止まって顔をあげる。男が立っていた。いかつい顔にがっしりとした体、そして三月に似合わないダッフルコート。
「はい、なんですか」
「これ、見てほしいんですけど」
 男は下を指さす。そして。
 ばっとめくられるコートの裾。ズボンのチャックからぼろんとこぼれる男のシンボル。
 固まる私をよそに、男はチャックをゆっくりと閉めて駆けていく。
 私は立ち尽くし、やがて膝をついた。

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