小説

『花びらを蹴散らして』柿沼雅美(『桜の森の満開の下』)

 両手にこれまでにない力を込めると、男は諦めたように力を抜き、そのうちに呼吸が止まるのを感じた。私の力も、思考も、全てが同時に止まって、ただ男の屍体の上には、すでにいくつかの桜の花びらが落ちていた。
 私は恐怖と後悔と訳の分からない状況に泣き伏せ、なにをどうしたらいいかもわからず、そばの樹の下で膝を抱えて目を閉じた。
 どれくらいそうしていたかも分からないほど時間が過ぎた気がして、私は男の顔を確認しようと、男が啓介だったら顔の上の花びらをとってあげなきゃと思った。
 私の手が啓介の顔に届こうとした時、何か変わったことが起こったように感じた。
 私の手の下には、降りつもった花びらばかりで、啓介の姿はかき消され、ただいくつもの花びらになっている。その花びらをかき分けようとした私の手も、体も、みるみるうちに花びらに包まれそうになって、思わず、その場からあとずさりし、駆けだした。
 やっとの思いで昼間に見たような広場に着くと、そこには人がいた形跡がいくつもあり、ゴミがまとめられていて、酔っぱらって眠っている人も目に入った。むせかえるような息と鼓動を落ち着かせるように、ゆっくり深呼吸をする。
 スマホを出して、サークルのトーク画面を表示し、真夜中にごめん聞きたいことあるんだけど坂戸啓介って人なに? と書いた。
 半分のメンバーがすぐにトークに書き込んでくれるも、誰も啓介のことを知っている人はいなかった。一番上の先輩も、そんな名前のOB聞いたことない、と書いていた。私は、でも昼間メンバーのお花見に来てた、と食い下がると、しゃべってたからてっきりひかるちゃんの友達が入ってきたんだと思ってた、と数人が言い、男の人に対する記憶力がいい美夏でさえ、知らないです、と返事があった。
 私は呆然として、吹き出す風さえ怖い気持ちをひきずりながら、駅に向かって歩くしかなかった。
 歩きながら、啓介の嬉しそうな笑顔を何度も何度も思い出して、泣きそうになった。恋だろうか。
 何度も何度も思い出しては、唇も喉も渇き、花びらが落ちて行くのと同じ早さで寂しさが積もっていくのが分かった。
 咲いたばかりの桜が散るのを見上げながら、私は足元の花びらを蹴散らすように泣きながら歩いた。

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