小説

『花びらを蹴散らして』柿沼雅美(『桜の森の満開の下』)

 「じゃあ、夜の桜、行こう」
 私の心を読んだのか、啓介は私の渇いて張りつめた唇を舐めて潤した。
 「いいね」
 返事をしながら、どこかへ行ってしまった下着を手で探すと、啓介が床から拾い上げて履かせてくれた。どこまでも、私のわがままが通っていることを思い出した。
 心地良い気だるさを連れて家を出た。生温い夜風が熱い顔を吹き抜ける。タクシーに乗ってここまで来たのがもう何日も前のような気がして、その距離を歩くのかと後悔すると、啓介が私の腕をつかんで後ろに寄せ、背中に乗るように言った。
 「子供じゃないんだからおんぶなんて誰かに見られたら恥ずかしすぎる」
 「こんな夜中に? 花見も終わりの時間だし、このあたりに親でも住んでる? ほら、はやく」
 それはそうだけど、と言いながらも私は啓介の背中に体をゆっくり預けた。この細い体でも力があるのは、ベッドに寝ていたときから知っていた。
 「はじめて会った時も腕を掴んだよね」
 思い出して言うと、俺もそれを思った、と嬉しそうに笑った。
 「そろそろ見えてくるよ。公園が広いからこっちの入り口からなら案外近いんだ」
 「ほんとだ。お花見をする広い場所とは違う感じだね」
 桜の森が私の目の前に現れてきて、まさしく一面満開だった。
 夜風に吹かれた花びらがパラパラと落ちている
 土肌の上は一面に花びらが敷かれていて、こんなにもの花びらはどこから落ちてきたのだろう、と思って見上げる。もう頭上には花びらのひとひらが落ちていくとは思えない満開の桜のふさが見渡す限り広がっていた。
 啓介は満開の桜の下へ歩きこんでいく。あたりがひっそりと、だんだん冷たくなる。ふと、太腿を支えている啓介の手が冷たくなっている気がしてなんとなく不安になった。
 突然ドッと冷たい風が花の下の四方の涯から吹き寄せた。
 ぐっと手に力を入れ、思わず閉じてしまった目を開いた。
 私がしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな男だった。口が耳まで裂け、縮れた髪の毛は緑で、ひぃっと鳥肌がたち、全力で降りようとすると、地面に落とされ、男の手が私の首にかかるのが分かった。
 私は転がるように首を締めようと向かって来る手を避けた。つんのめって地面に倒れた男の首に、今度は私が手をかけた。

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