小説

『滅びない布の話』入江巽(ゴーゴリ『外套』)

 仮縫いで合わせにいった二週間前の土曜日も晴れていて、糸、おおまかにいれたできかけのスーツ羽織ったとき、もうすでにとてもいいものになる気がした。四十年近く忘れられていたかたい布、カットと縫いでどんどんなめらかになっていくの、ようわかって、帰り道の阪急電車から見る桜のピンクふと目にしたら、あー、と小さく言葉以前、ため息以上のひとりごと。

 「そいじゃ着てみはりますか」、試着のためのスペースのカーテン、木村さんがしめてくれた瞬間、それでも人前だからと小出しにしていたうれしさあふれ、鏡見ると、とってもニヤついたポンパドール頭、そこにいた。バルカポケットそっと撫で、かたい布がすこしの空気含んだような立体感、すごい、これこれ、思う。いっしょにオーダーしていた白いシャツの襟はラウンド、着ていたベンシャーマンのシャツ脱いで、それにまず袖を通す。シュッシュッと直接肌の上をすべる新しい綿の感触はなまめかしいような感じでやわらかく、堅めにつくってもらった高い台襟、第一ボタンは閉めずに第二ボタンもあけたまま、持ってきたトゥータルのヴィンテージ、ストライプのスカーフ、巻いていく。銀無垢のカフスボタン刺してから、巻いたスカーフのかたち直して第二ボタンとめ、いつもつくるスーツよりもやっぱりずっしりとしたパンツを手にとり、リーバイス脱ぎ、足を通していく。ジャケットは素肌の上をすべるわけじゃないから、直接肌をすべるドーメルの布はパンツだけ、ガサッとしてパリッとしてたのもしい感じと履き終わるまでは思ったが、持ってきた茶革のベルト締め終り、その時点で一度、鏡のまえ、くるりとターンしたら、やまびこ洋服店のカットや縫いと、このかたい布がとけあうように足を被う感覚、ぞくっとした。いよいよジャケット羽織るまえ、ハンガーから外して、段返りのうっとりするようなカーブ、そっと手で撫でる。いまの布みたいになめらかすぎない布がつくる、かたい立体的なカーブ、美しくて着るのがもったいないような気がした。一度息を吸い込んで、深く吐いて、下を向いて目をつぶる。そうして右腕からジャケットに袖、通していく。裏地の白のキュプラに腕がとらわれていくようで、どうしてか俺は血圧はかられるときの腕の圧迫感がすごく好きで気持ちいい、健康診断でいつも感じることを思い出した。左腕もおなじようななまめかしさ感じながら通し終り、肩やそでをすこし直し、まだ目は閉じたまま、ジャケットの中掛けのくるみボタンをそっと留め、フワッと目を開けた。

 すごくいい。スーツもいいし、シャツもいいし、それらを身につけた俺もとてもよくて、鏡を通してしか俺は俺の全体を見ることができないのが、わずかに悲しい、とさえ思った。理想をとびこえた理想をまとっているようで、生地をはじめて見たときに感じた、上品なようなとがったような布が、その複雑さ残したまま、けれど明瞭で強いかたちをとって存在していた。俺は古い音楽と古い服がすきだけど、懐古趣味のつもりではすこしも生きていない、生まれてないころを懐古なんてできないし、俺はいまニ〇一六年の春の心斎橋にいて、世界でいちばんしあわせな服着てる。服がもたらす幸福、虚飾と嫌うひといるが、俺はぜんぜんそう考えない。いまはこのスーツが俺よりも俺なのだと思い、どこかへ走り出したくなるような、誰かを抱きしめたくなるような気持ちになった。

1 2 3 4 5 6 7