暗い部屋のなかに見たのは正座し俯いている千恵の姿だった。恐る恐る灯りをつける。部屋が明るくなったことでようやく私の存在を確認したかのように、こちらを振り向く。千恵の目は赤くなり、いつも梳かされていた長い髪は頭を洗濯機に入れたように掻き乱れていた。こちらを向いているが、その視線は宙を漂い、首は耳が左肩につくように捻り曲がり、だらしなく口を開けている。千恵の異常な姿を見て、全身の鳥肌が立つ。私は掛ける言葉が浮かんでこずに、口を閉じたまま立ちすくむ。
「わたしと一緒にいて幸せになれると思う？」
脆弱な均衡を千恵の声が破る。それは喉の奥から搾り出すような、低く掠れた声だった。「いまならまだ遅くないわ。」
いまならまだ間に合う、こんな関係なかったことにすればいい、そう思ったにも関わらず、
「俺は千恵を幸せにする。」
と、陳腐な言葉が、震える口から出た。
それから、どのようにして通常の生活を取り戻したかは、覚えていない。このあと私は彼女を優しく抱きしめたのか、裸足のまま家から飛び出したのかも分からない。
形の上では平穏を取り戻した生活も、目に見えないところでは日に日に肥大化する不安が私を蝕み、実生活においても映像と音声が微かにずれていく映画のように違和感がじわりじわりと成長していった。何度、帰ってきた家の前でチャイムを押すのを躊躇っただろうか。
自分が拒めないのであれば、いっそのこと千恵から出て行ってくれていれば、と思ったことは一度や二度ではなかった。腹の中で大きくなる魔物に怯えながら、こいつが出てくれば確実に逃げられなくなることを悟っていった。
結局、少女を見つけることが出来ずに鳥居へ戻った。家を出てからかなりの時間が過ぎたように感じる。きっともう千恵は他人の子供を産んだのだろう。男だろうか、女だろうか。事前に性別が分かると言われたが、私は断った。直面すべき事実を後へ後へとしたかった。千恵が入院しても一度しか見舞いに行かなかった。千恵はそれに対して不満を言わなかった。彼女にとって私の顔を見たところで罪の意識に駆られたとしても、なんの救いにもならないのだろう。
これから先どうすればいいのか自分でもまったく見当がつかない。心の抜け落ちた妻と他人の遺伝子を継いだ子供との家庭などうまくやっていけるのだろうか。上司から紹介されなければ、花束など贈らなければ、重大な告白をされたとききっぱりと別れていれば、逃げ出していれば。次から次へと湧きあがる後悔が頭を占領する。
千恵も、赤ん坊も死んでしまえば。そこまで考えると、私ははっと我に帰った。なんてことを考えているのだろうか。自分が恐ろしくなった。