小説

『逢魔が時』檀上翔(『遠野物語』)

 小川を飛び越え、対岸に上がろうとしたとき、斜面の中腹に咲く青い花が目に付いた。近づいてみるとそれは竜胆(りんどう)だった。なぜこんなところにあるのだろうか。顔を近づけるとほのかに甘い香りがした。

 千恵に交際を申し込むときに花束を贈った。体裁の上がらない私が美しく神秘的な雰囲気を持つ千恵の気を、すこしでも引くには綺麗な花に縋るしかなかった。まさか自分が千恵と交際できるとは、はじめて体を重ねるまで信じ切れなかった。
 夕日を浴びて空色に映えている竜胆を見て、一番幸せだった時を思い出した。何も知らず、有頂天になり毎日が充実していた頃。彼女の神秘的な理由が、大きな隠し事をしているということを知らなかったあの頃。

 指輪を見せてプロポーズをしたとき、千恵は喜んだ表情を見せず、強張った顔で私を見た。私が微笑みかけると、千恵は俯き、冬の空に溶けていきそうなくらい小さな声で「ありがとう」と呟いた。
 その次の日、千恵から信じられない事実が告げられた。それは彼女のお腹の中にすでにもうひとつの命が育まれつつあり、その命は私以外の男によって与えられたというものだった。赤子の父親は千恵を私に紹介した上司だという。私は心臓が脈打つのを忘れるくらいの衝撃を受けながら、千恵が結婚に異常なまで焦っていたこと、毎日のように上司から結婚を促されたこと、そして紹介されたときに感じた上司と千恵の妙に親しげな様子が一度瞬きをする間に、千恵の告白と結びついた。
咄嗟に別れようと思った。いまならまだ間に合う。こんな歪な関係に耐えられるほど私は強くも鈍くもなかった。
 けれど、言い出せなかった。元恋人から厄介払いされ、婚約者にも捨てられることになる千恵を思うとあまりにも哀れに感じられてならなかった。毎日のように朝起きると「今日こそは婚約解消を申し出よう」と思いながら、だらだら時間が過ぎ、お腹の膨らみが目立つようになると、籍を入れた。結婚式は行わなかった。

 
 鳥居があった方向へ引き返す。早歩きで戻っていると、暗がりに沈む一軒の小屋が目に入った。こんなものがあっただろうか、首を捻りながら近づく。塗装がはがれ、ところどころ破れた小屋は北からの風に震えている。納屋として使われていたのだろうか、錆びた桑や鋤が立てかけられている。
 扉に手を掛け、開こうとするが、建付けが悪くなっているのか、鍵がかかっているのか力を入れても開かない。微かに開いた隙間から中を覗くが、赤い着物は見えなかった。

 ある日のこと、仕事から帰り扉を開けようとするが、開かない。チャイムを押しても反応がない。鍵を開けるが、内側からチェーンが掛けられており、扉はそれ以上開かない。僅かな隙間に顔を押し当てて、妻の名前を呼ぶ。それでも反応はない。嫌な予感がして、隙間から細めた手を忍ばせてチェーンを外しにかかる。数分間の格闘の後ようやくチェーンが外れると、靴を脱ぎ捨てて部屋へ駆け込んだ。

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