小説

『逢魔が時』檀上翔(『遠野物語』)

 残暑のなか早歩きをしていると、頭のてっぺんから汗が流れ出して、額や首筋を濡らした。長い時間歩いているように思うが、なかなか鳥居が見えてこない。道を誤ったのではないかと何度か振り向くが、歩いてきた道は藪の中に消えている。前を向いても先が見えない。妻が苦しい思いをしているときに、私は道迷ってしまっている。自分は何をしているのだろうか。
 こうして歩いていると、妻の出産が他人事に思えてくる。たしかに他人事なのかもしれない。そもそも私はなぜ妻の元へ行かなければならないのだろうか、ふと根本的な疑問が浮かんできた。行って千恵のためになにができるのだろうか。そもそも千恵は私を待っているのだろうか。

 

 ようやく藪の切れ目が目に入った。私は思わず小走りで抜けると、目の前に黄褐色にくすんだ鳥居が出現した。そこは広場のようになっており、そこだけ藪が抜け落ちているようになっている。風が鳥居を包み、梟が鳴くような低い風鳴りが響いている。風鳴りとススキの靡く音を掻き分けて、かすかに水が流れる音が聞こえてくる。先ほどまで喧しいほど聞こえていた蝉の声がぴたりと止んでいる。
 こんなところに本当に誰かがいるのだろうかと、鳥居を潜ろうとしたところで柱の裏に赤い着物の小さな女の子がしゃがんでいることに気がついた。一瞥しただけで、そのまま通り過ぎようとすると、
「ねえ、お兄さん。」
と、細く高い声で呼び止められた。振り向くと女の子は立ち上がり、私を見上げ微笑んでいる。黒い髪の毛はおかっぱに整えられ、赤い着物を着ている。
「ねえ、お兄ちゃん、わたしと一緒に遊んでよ。」
「ごめんね、お兄さんはいま急いでいるんだ。お友達を遊びなさい。」
 女の子は返事をせず、私から目を離さずに、相変わらず微笑んでいる。私が立ち去ろうとすると、彼女はまた声を掛けてくる。
「お兄さん、手紙を渡されたでしょ。その手紙を持っていったらお兄さんにひどい災いが襲い掛かるよ。」
 私は体ごと振り返り、目を見開いた。少女はなにごともないように閉じた口を横に大きく伸ばし笑っている。
「手紙持って行ったら、災いが起こるの。」
 少女は繰り返す。私は血の気が引き、一気に体温が下がるのを感じた。それなのに、心臓は襲撃された蜂の巣のようにものすごい勢いで活動をはじめる。私は心臓を服の上から力の限り押さえつけて冷静を保とうとする。

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