小説

『逢魔が時』檀上翔(『遠野物語』)

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 つまらないことを引き受けてしまった、左右に揺れながら進む汽車のなかで呟く。窓映る強張った顔の向こうで、深緑の山々が年老いた亀のようにのろのろと後退している。
 蛇のように曲がった山間の川の流れは、昔見たそれと全く変わっていなかったが、なんの感傷も湧いてこなかった。ひと昔もふた昔も前の趣の車内には杖を持った白髪の老人が一人、ダークスーツを着たサラリーマン風の中年が一人、あと高校生ぐらいの男の子二人乗っているだけだった。私は扉のすぐ隣に立ち、傷と汚れが目立つ窓から少しずつしか進まない景色をじれったく眺める。右手に握ったひとつの封筒に目を移すと、溜息が漏れた。

 病院から妻の千恵が産気づいたという知らせを受けると、慌てて最寄りの駅に向かった。車を使いたいところであったけれど、ここ二三日は使わないでくれと頼んでおいたにもかかわらず母親が乗って出かけてしまっていた。これが何の連絡もなく突然腹を大きくした女を連れ帰ったことに対する、無言の意思表示なのだろうか。
 駅に着いて時刻表と腕時計を交互に見ると、汽車が来るまでまだ十五分もあった。一時間に一本しかない路線だから、十五分であれば運がよいといえるのだろうが、私にとっては眩暈がしそうなほど長い時間に思えた。お腹の中にいる子供は逆子の上に、体の弱い千恵にとってはこの出産が最初で最後だろうと医者から告げられており、難産が予想されていたからなおさらだった。背中に溜まった汗にシャツが張り付く。
 私はベンチに座って待つことが出来ず、強風が吹けば崩れ落ちそうな舎屋を出て、ホームを行ったり来たりした。煙草に火をつけるが、乾いた喉に煙が張り付くような不快感を覚えて線路に投げ捨てた。
 夏の終わりにしがみつくように蝉の鳴き声が押し寄せてくる。彼方からじわじわ近づいてくる波のような響きが、晩夏の寂しさ感じさせた。
 線路に伸びた自分の影を眺めていると、視界に白いなにかがふっと入ってきた。思わず視線をやると、白いワンピースを着た女性が見えた。顔を俯けたままこちらに歩いてくる。
「あのう。」
 蝉の声にかき消されるようなほど小さい声がした。振り返ると、先ほどの女性がすぐ近くに来ていた。歳は三十前後だろうか。長い黒髪が風に揺れている。目は切れ長の一重で、黒目勝ちな瞳が覗いている。色白で、どこかひ弱な印象を受けた。
「すいません。」
 女はもう一度小さな声を絞り出す。
「ああ、はい。なんでしょうか。」
「いまから伊弥駅に行くのでしょうか?」

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