小説

『逢魔が時』檀上翔(『遠野物語』)

 確かに私はこれから伊弥駅近くの病院まで行く。しかし、なぜそれをこの女が知っているのか。不気味に思い、視線を線路先に移すが、まだ汽車は来る気配がない。
 女は微かに頬を緩めると、一度ゆっくりと瞬きをして、
「初対面でほんとうに申し訳ないのですが、伊弥駅に行くのでしたら、この手紙を届けていただけないでしょうか。」
と、聞き取るのがやっとの声で封筒を差し出した。私は状況が飲み込めず、封筒を見つめる。封筒には赤紫の朝顔が薄く描かれている。
「本当であればわたしが自分で届けたいのですが、体を患っており行くことが出来ないのです。お願いできませんか。」
 女は目を細め、唇を震わせ懇願してくる。苦しむ千恵の姿が浮かび、他人の頼みを受けている時間などないことは明らかだった。

 
 2
 いま私の手には女性から託された手紙が握られている。
 昔からそうだった。頼まれたことは断れない。周りからは、人がいいだの、優しいだの言われるが、彼らが内心私のことをお人よし、都合がいい人間だと思っているのは知っている。自分でもそう思うのだからどうしようもない。この性分のため、子供の頃は学級委員長や掃除当番を押し付けられ、大学になると友人のレポートを多く抱える羽目になった。なぜしたくもない学級委員長や他人のレポートをしなければならないのだろうかと、そのたびに考えたけれど、答えが出てこない。私にいわせれば他の人は、どうやって頼み事を断っているのかが不思議でならなかった。
 妻の出産に直面しているにも関わらず、知らない女からの頼みも拒めない自分を忌々しく感じながらも、どこか諦めている自分もいた。

 汽車に乗って三十分ほどで伊弥駅に着いた。小さな駅で、降りたのは私だけだった。汽車を待っていた頃よりも陽は傾き、柑子色の光が膨らんでいる。電柱に括りつけられた木箱に切符を入れると、境界線のあいまいな駅の構内を出た。
『駅を出るとすぐに北へ向かう道があります。その道をいくと鳥居が見えますので境内に入って東北方向に進むと、小さな池が見つかると思います。そこで手を三回叩いてください。歳を取った女性が出てくるので、この手紙を手渡してください。』
 何度も手紙など後回しにして早く病院に駆けつけようと思ったにも関わらず、私の足は無意識に女の言葉に従っていた。
 北へ向かう道は竹薮の奥へと続く獣道しかなく、背中から藪の中へと風が吹き込んでいる。躊躇ったものの、風に背中を押されるように奥へと足を進める。

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