小説

『飼育』植木天洋(『人魚姫』)

 どだぁっという重い何かが床に滑り落ちる音がした。
 ビチャ、ビチャ
 水の音だ―—。
 頸しか動かない。今の位置からはその音源を探れない―—どこからしているのか―—それはバスルームしかないだろう。
 ギッ・・・・・・ギギィ・・・・・・
 まるで爪で床をかきむしるような音が床についた頭から伝わってきた。
 チャッ ベチャッ・・・・・・チャッ・・・・・・
 ぬめりを帯びた粘着質な音が続く。濡れた海草を叩きつけるような音だ。
 ギギギィ・・・・・・ギ・・・・・・
    ず・・・・・・ぅるう・・・・・・うずぅ・・・・・・
 何か重いモノを引きずるような音。一定しない動きが、不気味さを増す。
 一体何が近づいてきているんだ? 考えられるのはひとつだけだけど、想像したくない。
 何かが床にたたきつけられて、その後に重い物が引きずられる。同時に生臭さが、潮臭さが、魚臭さが迫る。
 音は次第に大きくなる。かろうじて目をやると、暗闇のなかでなにかがこちらに向かって這い寄ってきていた。汚水ともいえる粘液がバスルームから続いている。
 濡れた黒髪を振り乱して匍匐全身でにじり寄ってくるそれ。強烈なデジャヴ感。間違いなくホラー映画で観た怖気をふるう光景だ。
 体は動かない。それは振り乱した髪の隙間から覗く恨めしげな上目遣いで、尖った真珠色の歯をむき出しにして、こちらへ少しずつ這い寄ってくる。指が鉤爪のようになって床をかきむしっている。
 怖い。マジで怖い。いやもう怖いとかそういうのじゃない。無理。思考停止。
 ちょっとの間気を失っていたらしくて、目をあけると目の前に彼女の端正な顔がせまっていた。
 大きく濡れた両目に、顔をひきつらせた情けない僕の顔がうつっている。彼女の黒髪が首筋にからみつく。チビりそうなのに体が動かなくて、動いているのはもう早鐘連打に近い心臓だけだ。
 彼女は口を開けて、真珠色の凶悪に尖った歯を見せた。ずらりときれいに並んでいる。ダメだ―—きっと腹をすかせて不機嫌な彼女に喰われる―—生きたまま貪り喰われる!!
 で、でも、こんな美女に喰われるのなら、それでもいいかも。と一瞬思ったのは弱っているせいだと思いたい。イヤ普通にだめだろ。キスもしたことないのに。22年間守り通した僕の純潔が、こんな形で奪われるとはーーある意味甘美なのか―—いや、だめだから僕!

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