小説

『飼育』植木天洋(『人魚姫』)

 もどした昆布を彼女に与える。彼女は食べている間は大人しい。けれど昆布が切れると暴れ出す。だから昆布を与える。その繰り返しだ。
 何度も何度も何度も何度も、繰り返してついに育児ノイローゼの意味をぼんやりと理解し始めた頃、僕は思わず水に戻す前の乾燥昆布の袋を差し出した。いや、差し上げた。どっちでもいい。
 もう無理だ、どうかこれを喰ってくれ、頼む―—と、女神は意外にも微笑んで、袋を噛みちぎり乾燥昆布をバリバリと喰いはじめた。
 新食感!とリポートする地方局女子アナウンサー並の笑顔を浮かべて、喜々として喰った。ボリボリボリボリ。
 よかった―—。
 バスタブに寄りかかって、ため息をつく。
 先輩、昆布、水でもどさなくてもよかったですよ。むしろすごい喰ってますよ。
 ああ、生臭い。水を換えなきゃ―—水道代―—暑い―—ああ、生臭い―—。
 これはいかん。かなり、臭いがますます殺人的なってきた。僕は体中に消臭スプレーを吹きかけ、財布をひっつかんでコンビニに走った。氷袋をカゴいっぱいに購入。走って部屋に戻ると、そいやっとばかりに袋をちぎって氷を浴槽に投入した。
 ボチャボチャと音をたてて10袋分の氷が浴槽に落ちる。ヤツはそれを不思議そうに見る。それから―—ニヘェッと喜色を浮かべた。ゾッとするような笑み。はっきり言って、気持ち悪い。怖い。ああイヤだ。
 氷を掴んでは壁にバシッ、バシッ、と投げつける。ペロペロなめる。完全に遊んでいる。気に入ったらしい。これなんか見たことがあるな―—真夏のシロクマか。動物園の。氷の差し入れの光景。それだ。
 とにかく、臭いは少しマシになった。冷やせばなんとかなるのだ。そうだ、スーパーの生魚だって氷の上にのせて売られているじゃないか。魚は冷やすものなんだ! 先輩、書いておいてくださいよ!
 空っぽになった氷の袋をまとめてゴミ袋に入れて、僕は力つきて床に大の字になった。氷一袋108円×10袋。請求させていただきます、先輩! レシートをしっかりと握りしめる。
 腹もすいたしのども乾いた―—インスタントラーメンでも食べようかとキッチンへ向かおうとして、何かを踏んだ。
 昆布!
 ずるうぅっと滑って、僕の体は一瞬宙に浮いた。事故でよく起きるあれ―—時間が妙にゆっくりと感じる現象―—に見舞われる。体が上を向いて、天井が見える。重力がくるりと回って、僕の体はゆっくりと床に落ちる。頸の後ろ―—後頭部から。どぉおんっという音が妙に間延びして聞こえた。
 それから―—プツッと意識が途絶えた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10