小説

『飼育』植木天洋(『人魚姫』)

 恐怖に震える僕の目の前で、彼女はその歯で自分の紅い唇を噛んだ。歯は鋭くて、当然唇には深い傷ができる。みるみる血が膨らんであふれて、ぽたりと僕の唇に―—落ちた。
 え? 血? キスは? あれ?
 つうと流れ込む彼女の血。
 鉄錆の味が舌にからみついた。吐き出すこともできず、かといって飲み込むことはもっとできず、喉を伝って流れ込むそれを拒むことができないで息をとめ唇を半開きにしているしかなかった。
 彼女は苦しむ僕をじっと見下ろして、それはまるで獲物が弱っていくのを観察している捕食者の目のようで、ひどく冷酷だった。まずい、これは絶対にまずい。
 ちょっと泣けてきた。
 だが次の瞬間、彼女は白目をむいてどうと僕の真上に倒れてきた。僕は反射的に彼女を抱き留めた。
 ん? 手で―—抱いた?
 手が動いていた。手足を動かしてみる。あれっ、俺なんか元気になってる? さっきの怠さが嘘みたいに、前よりいい気分だ。
 助かった。いや助けられた―—絶対に喰われて死ぬと思ったのに、どうやら彼女は僕を助けてくれたようだ。
 反対に腕の中の彼女はぐったりとしていて、皮膚もところどこ乾いていた。ここまで這ってくるのに、海水から出て30分のリミットを超えたのかもしれない。
 僕はあわてて彼女を抱えると、慎重にバスルームへ向かって―—なにせ彼女が這った後でぬるぬる滑るのだ―—できるだけそっとを浴槽に戻した。
 彼女は人工海水に浸かって死んだように青白い横顔をしばらく見せてから、ハァと小さく息を吐いた。ピチャリ、と水が跳ねる。
 彼女をバスルームまで運ぶという重労働をしたわりに、疲れはない。今なら彼女を背負って全力疾走できそうだ。しないけど。
 そういえば人魚の肉を喰べると不老不死になるとかいう伝説がある。その血は、怪我を治癒させたり体力を上げる力があるのかもしれない。とにかく、彼女は命がけで僕を助けてくれたということだ。
 海水に浸かったことで、彼女の具合はだいぶ良くなったみたいだった。うつらうつらとし始めた彼女を後にして、僕はそっとバスルームのドアを閉めた。
 部屋には彼女の這った後がべっとりと残り、その先に僕の血が固まってこびりついていた。全くどんな殺人現場だ。僕はクーラーをつけてから、部屋を片づけ始めた。

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