小説

『カノン』柿沼雅美(『花をうめる』)

 「なんか卒業したくないなぁ」
 私が言うと、花音は、そう? と少し先で振り返った。
 「私は卒業したいなぁ」
 「なんでー? 友達とかとも離れるし。大学でまた友達ができたりサークルに入ったりちゃんとできるか不安だよ」
 「ミカは大丈夫だよ。だって、ここの入学式のとき、ミカから声かけてくれたんじゃん」
 「それは」
 あとに続く言葉が言えないでいると、だから大丈夫だって、と言って花音は自販機に100円玉を入れた。
 入学式の日、私は花音に声をかけた。どこ中? っていうみんなが最初に言う話しかけ方をそのまま真似した。花音は、大人びて見えて、あまり女子たちが声をかけていなかったこともあるけれど、私にとっては、一目見て、心がもぎ取られたような感覚があった。
 私はもしかして同性が恋愛対象なのかと悩んだりしたけれど、恋らしい恋をしたことがないし、男性アイドルをかっこいいと思うので、完全にそういう子ではないのかもしれない、分からないけど。
 「あ、10円足りなかった」
 私が言うと、花音はポケットの小銭入れをまた出して、10円を入れてくれた。ジャコンと硬貨が自販機にのみこまれた音がした。
 「ありがとう」
 イチゴミルクがゴトッと吐き出され、まだストローも挿していないのに、甘い匂いがした。
 「なんかイチゴじゃない良い匂いする」
 「あ、私かな。さっきちょっとクリーム塗った」
 花音は自分の手をくんくんさせて、これだわ、と言って、私の顔の前に手のひらを広げた。白い、ふわふわした手を見つめて、そこから発せられる桃のような匂いにうっとりした。
 「3年たっても変わらなかったね、ジュースの好み」
 紙パックに花音がストローを挿すと、プッとグレープフルーツの果汁が飛び出して見えた。
 「そうだね!入学式の日もこれだった。懐かしいー」
 「あのときミカって、私の名前どう書くの? って聞いてきてうるさかった」
 笑いながらストローをくわえる花音の唇は濡れてつやつやしている。
 「だって、カノンって言われてもイメージできなかったんだもん」
 イチゴらしくない偽物のイチゴの甘みが口から鼻にぬけて、春っぽい、なんて思う。
 「花の音って言ったら超感動してくれて」

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