小説

『熱海の魔女』伊藤なむあひ(『ヘンゼルとグレーテル』)

 さすがにいきなり家に呼ぶのは不用心すぎるだろうか、とも思いましたが知らない相手と会うのが知らない場所となるのは不安が大きすぎました。心理的ホームであるこのお菓子の家で会う方がまだ安心といえましょう。わたくしは次に『グレーテル』返信することにしたのですが、心の中は既に『ヘンゼル』とのやりとりのことでほとんど占められていた、というのは秘密です。

 そしていよいよその日が来ました。『ヘンゼル』とDMでやりとりしたスケジュール通りなら、研修中日の終了後、熱海駅からバスに乗り山の麓までやって来ます。そこからわたくしの描いた地図に従い約三十分かけて山を登り、このお菓子の家に辿り着くのは夜の七時半ころのはずです。滞在時間を一時間半で計算しても終バスギリギリのスケジュールですが、これなら翌日に研修があるから破廉恥な展開になったりすることもないでしょう。そして今がその七時半なのです。
 ついついパソコンを開きGritterをチェックしてしまいます。昨日の早朝に「いまから熱海に向かいます!」という文章と共に新幹線の切符の画像を握った手の写真の投稿が、そして今日の昼過ぎには「今夜はとある人に会いに伊豆山に登ります」との投稿がありました。伊豆山というのはわたくしが住むこの山です。こうして他人にこの山のことを言及されるというのは初めての体験で、なんだかそれだけでドキドキしてしまいます。
 と、そのときです。コン、コン、と砂糖菓子の扉がノックされました。時計を見るとやはり予定通り。「はーい、いま行きますー」とだけ伝えて姿見で自分の恰好をチェックします。年季が入ってこそすれ、しっかりと手入れされた黒のワンピースが肌を白く引き立てている、はずです。大きな三角帽は野暮ったいけど、きっと小顔効果に一役買っていることでしょう。よし、と小さく呟いて鍵を開け、扉を開けました。真っ先に冬の冷気が家にあがりこんできます。
「いらっしゃ、い」
 言いながら、わたくしは失礼だとは思いながらも『ヘンゼル』の顔をまじまじと見てしまいました。そこには、妄想の中の顔と瓜二つの美貌……ではなく、よく言えば優しそう、悪く言えばあまり印象に残らなそうな四十台後半と思われるスーツの男性が立っていたのですから。
「はじめまして魔女さん、つづ……ヘンゼルです」
 男はたぶん本名の名字を言いかけた(!)あとに『ヘンゼル』を名乗り、ややずれ落ちた眼鏡を左手でクイと上げます。そしてちょいちょいと手刀を切りながら硬直するわたくしの前を通り過ぎ「やあお邪魔します。それにしても寒いですねー」なんて言いつつ部屋に入っていきました。
「あ、そうそう。これお土産です」
 言いながら振り返り、『ヘンゼル』は手にしていた白い箱を渡してきました。

1 2 3 4 5 6 7 8