小説

『それからそれから』広瀬厚氏(夏目漱石『それから』)

 三千代が玄関で靴を履き、じゃあ、と代助に軽く手を振る。うんじゃあ、と代助も軽く手を振り返した。
 ガチャリ。三千代が玄関の扉を開けたその時。えっ!と、思わず彼女は驚きの声をあげた。なんと得がそこにいた。
「おい! 三千代、どう言うことだ」
 代助のマンションのそばを運転手付きの車に乗って通りかかった得が、久しぶりにちょっと息子の部屋でも覗いてみようと立寄り、今インターホンを鳴らそうと指を触れかけたその時だったのだ。
 得の声に代助も驚いた。そして反射的に部屋の奥へと逃げた。おい代助! と、父親の声が奥まで届く。
 得は三千代を玄関の中に押し戻し、ずかずかと部屋へ上がった。振り返り、おまえも上がれ! と言う得の言葉に逆らえず、三千代も再びおずおずと代助の部屋へ上がった。
 リビングの奥のベッドルームで縮こまる代助を見つけ得は、こら代助! と、激しく怒鳴った。部屋には艶めかしい匂いが残り。いっぱいになったゴミ箱から、ティッシュやら使用済みのコンドームが、はみ出し顔を見せている。万事休す。
「まさかおまえが三千代の相手だったとは夢にも思わなかったぞ。わしはおまえが何をしようと大抵のことは寛容にみる。しかし今回のことだけはまったく別だ。おまえは一番してはならないことを犯してしまったのだ。おまえがわしの金を盗んだとしても許すかもしれないが、女を寝取られては到底許せない。ことにそれが三千代となればなおさらだ。わしは大変に怒っておる。よく聞け!もう生涯代助には会わない。どこへ行つて、何をしようとおまえの勝手だ。そのかわり、今より子としても取りあつかわない。また親とも思つてくれるな。最後の情けにこのマンションと今おまえの乗る車はくれてやる。じゃあわしはもういく。おい三千代、一緒にいくぞ」
 そう言って、茫然自失する息子をひとり残し、わけの分からぬ成金エロおやじは女を連れ、部屋を去っていった。
 と、ちょいと長くなったが、てなわけで代助は働かざるを得なくなったのである。で、目出度いのか目出度くないのか分からぬが、兎も角も金満商事に入社となった。

「長井さん、わたしを今度BMWの横に乗せてくださいよ」
「もちろんいいよシズカちゃん、どこへドライブ行こう? あと車だけじゃなく、僕の上にも乗らないかい」
「もう長井さんたらエッチなんだから」
「冗談冗談、ちょっと本気だけど」
 仕事もそっちのけで女子社員とのおしゃべりに熱中する代助だった。肝心の仕事のほうもまったくの余裕だった。毎日遊んでいるのか働いているのか分からぬ始末だった。それで毎月結構な給料が出た。毎晩のようにディスコへいったり合コンしたりして楽しんだ。休日にはドライブしたりゴルフをしたりした。夏はサーフィンやらマリンジェット、冬はスキーにスノボとエンジョイした。人生なんて楽勝だ! と、ちょっと考えればずっとは続くはずのない、右肩上がりを信じて疑わなかった。

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