小説

『吾が輩は神ではない』洗い熊Q(『吾輩は猫である』)

 実に簡単である。不可能のように思えるが、理を追求すれば可能だと気付く筈だ。この先に幾らでも予知をする、その中から外れる事実があるので有れば見える訳である。
 では、実際に見るとどうなるか?
 ――わからないのである。
 これが面白い、実に面白い。
 いや、何が面白いのか。
 この予知の質問形式を変える事によって、また別の答えを得る事実があるからだ。
 外れる未来があるとでは無く、当たり続ける未来があるのかと予知して見るのだ。
 そうするとどうなるか。素直に返ってくる、当たり続けると。不思議だ。
 吾が輩の予知は絶対的だと鼓舞する言い回しながら、決して可能性という摂理を無視はしない。その様な解答方法だ。
 でもこれが、この事実が。
 この先の吾が輩の楽しみを、より楽しみにしてくれている事柄なのだからだ。

 
 楽しみは苦しみの種。楽しみあらんよりは、其の心に憂いなきにいずれぞ。
 楽しみを先に取るか、後に取るか。どちらにせよ、吾が輩の楽しみは後者にならざる終えない。
 残しておいた疑問に答えると共に、その楽しみを語るとしよう。
 己の最期を見たのか。
 無論、見えた。もうそれは、近い将来なのだ。
 これから数ヶ月も経たないうちに、吾が輩は病気になる。癌だ。肺癌だ。
 実は今も自覚症状らしき兆候は出てきている。もう避けようのない現実になっておる。
 これから段々と身体に羊水が溜まってゆき、動くことも、食べることも、息をするさえ困難になってゆく。
 手術も無駄だ。病原の箇所と、転移の速度で無意味に終わるからだ。この事実が予知できているから、旦那と幸恵には末期になるまで気付かれないようにするつもりであるが。
 小春日和の日。いつもお気に入りの日当たりの良い縁側で。
 差ほど美しくもない、見慣れたいつもの景色の中。べったりと腹這いになり、息も絶え絶え。
 照らしてくる陽の光で、空が白く輝いて見える視界の中で、吾が輩は静かに息を引き取って逝く。

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