小説

『吾が輩は神ではない』洗い熊Q(『吾輩は猫である』)

 ――あ、今日はマグロにしよう。と猫缶のラベルから発想を得て、晩の夕食に刺身が出てくる事などは予知できるのだが。

 先には何があるのか。この先には。
 だが心境の奥底は期待という希望よりも、この先はいつまで続くかという不安が横たわる。
 吾が輩が何処まで未来を見通せるか。疑問も興味もあるだろう。
 大分先まで見通せる、かなり先まで。
 最果てまでの予知した事の例えを出すなら、天の川銀河とアンドロメダ銀河の衝突の時期を垣間見た時か。
 テレビ番組での特集で拝聴して、ふとそれを想い見てしまう。壮大な光景だった。今晩のおかずなどよりも崇高な眺望。この能力の特権だと吾が輩は思っている。
 そこまでの未来が見えるのであるなら、人類がこの先どうなるか? と聞いてくる人間もいるだろう。
 人類は滅びる。あっさりと、呆気なく。悲惨だ。
 その阿鼻叫喚の情景を語れるが、どのような事が起きるのかと危惧する必要はない。
 大体の事を今の人間たちが予測している。それが起きる。それだけだ。
 しかしその状況を思い浮かぶと不謹慎だが微笑んでしまう。何故なら吾が輩の種族たちの行く末も見えるからだ。
 人類が滅びようと我が子孫たちはちゃっかりと生き残っておる。たくましく、ずる賢く。人類全滅で悲痛な心境は確かだが、己の種族が安泰だとわかるとほくそ笑んでしまうのはしたかなかろう。
 ひとつ気に食わない事と言えば、あの犬族もしっかりと生き残っている事。
 彼らは絆が強い種族。生き残るのも当然か。
 まあ幾らと語ろうとも、その様な光景は旦那と幸恵が亡くなって随分と経ってから。だから吾が輩が危惧する必要はないのだ。
 しかし、人間とはこの様な終末やら世紀末的な話が本当に好きだな。
 見えぬ未来を危惧するより、今の目の前を改善するとよろし。
 来年を語ると鬼が笑うと言うが、未来を語る時点で吾が輩に笑われておる。

 
 さてここまで吾が輩の力を語ったが、もう一つ、気がかりになる事がある筈だ。
 それは己の人生最期を見たか? だろうと思う。気持ちは理解する、よくわかる。
 無論、知っている。そう、遠くない先に。

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