「百瀬さん、ちょっと手伝ってくれんか!」
老人の声に慌てて百瀬も川に入った。そこで百瀬は、川にまったく水深がないことに驚いた。救助する姿に夢中で気付かなかったが、百瀬よりもずっと背の低い老人の膝丈が隠れるぐらいだった。また、流れも見た目よりもずっと緩やかだった。
「ここ、意外と浅いですね」
子供を抱きかかえながら百瀬は言う。名を訊ねると、「犬介!」と元気良く子供は答えた。
「川底に岩が盛りあがっとるだけで、水深はまったくないんじゃ。そして削れた岩の影響で、水流は激しく見えとるだけで、本当は緩やか。ただ、外から見ている分には、そうは見えんのじゃ。まあ、だまし絵みたいなもんじゃ!」
老人は快活に笑った。特に面白くなかったが、百瀬も快活に笑った。
「なるほど。川にもいろいろあるんですね! 地球の神秘だ!」
彼らが岸に戻ってくると、周囲の人々から歓声が上がった。
「本当にありがとうございます!」
百瀬の前に、先ほどとは打って変わり、満面の笑みの母親が現れた。息子を抱きしめると、駄目じゃないの、勝手に川で遊んだらと怒りながらも、そのトーンは安堵の温もりに溢れていた。百瀬の心は、なんだかほっこりとした。
「ちょっと目を離した隙に川に入っちゃったんです。川でバランスボールを使って遊んじゃ駄目だって、口が酸っぱくなるほど言ってるんですけど」
「それなら、バランスボールをここに持ってこない方が良かったですね」
何気なく百瀬が言うと、母親は急に表情を強ばらせた。そして、
「家庭にはそれぞれの事情っていうものがありますから」
と百瀬を非難するトーンで言った。百瀬は戸惑う。自分が非難される理由が塵とも分からない。
「まあまあ、お母さん。彼はまだ若い。世の中のことを良く知らないんじゃ」
すると、二人の間を老人が取り持つ。
「ああ」
母親は憐憫の目で百瀬を見る。
「そうじゃな・・バランスボールを家から持ち出さない、という家庭内ルールを作れば良いかもしれん」
老人は渋めの声で言った。
「ああ、なるほど! その手がありました。さすが、人生の先輩は言うことが違います」
母親が感嘆の声を漏らす。賞賛を浴びた老人は満更でもない顔だ。二人のやり取りを百瀬は黙って見ていた。いろいろ言いたいことはあった。ただ、「同じこと」を口にしたとしても、自分が言うのと、この老人が言うのとでは、歩んだ人生の分、「言葉の重み」が違うのだろうと思った。いや、そう思わないと、やっていられない。