小説

『首なし姫は川を下る』伊藤なむあひ(『人魚姫』)

 僕は自分に言い聞かせるようにそう続けたけど、姉の親指は動かなかった。
 少しだけ間があった。
「あ、見て見て、あの木の上にリス」
 驚いた僕がそう言うと、すぐさまスマホが振動した。
『ほんとバカなんじゃないのあんた。見えないの!』
「あ、そっか。ごめんごめん」
 普通に申し訳なくなり謝るけど、姉はそんなに怒っている風には見えなかった。本当のところは知らないけど。
「もうすぐ公園が終わるよ」
 木で出来た小さな橋を渡る為、姉をエスコートしながらそう言った。
「どうしようか」
『あんた何しに来たのよ』
 しかし、文字だけというのは本当に相手の気持ちが分からないものだ。
「どうしたいの?」
 だから僕はそう姉に訊いた。
『どうって、そりゃ』
「そりゃ?」
 首を見付け元の場所に戻し何もなかったみたいに暮らしたいのだろうか。
 それともこのまま首なし姫として公園をさまよい続けたいのだろうか。
 他には。他には、どうすれば姉が幸せに存在していけるのだろうか。
 僕と姉は無言のまま歩き続け、公園の終わり、一般道へと繋がる低い登り階段を前にしていた。
「人魚姫になりたかった」
「人魚姫?」
 立ち止まろうとする僕の手を離し、姉はまるで目が見えてるみたいに川へ入っていった。
 姉さん、と呼び止めようとしたところで久し振りに姉の声を聞いたことに気が付き僕は動けなくなった。声は、リュックの中から聞こえた。
 細長い公園と十字にぶつかる砂利道の下、海へと向かっているであろうトンネルに姉はザブザブと川の流れに沿って進んでいく。もう半分くらい見えなくなっていた。僕はどうしてか急いでリュックの中から姉の首を取り出し、トンネルの暗がりに向けてボーリングの要領で放り込んだ。
 姉さん、無くなった首痛くないのかなと見当違いのことを考えているうちにとうとう姉は見えなくなった。後を追う気にはなれなかった。僕はいつも持ち歩いている鎮痛剤を握りしめ、立ち尽くしていた。風もなく、視界で動いているのは木の上のリスだけだった。

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