小説

『T-box』吉田大介(『浦島太郎』)

「逃げてないで、やりたいことをやれ・・・」

 もあもあもあもあ・・・砂埃が白い煙となり、粒状の蛍の光。『蛍の光』(作者不詳・スコットランド民謡)もBGMで流れ出した。
 握った拳からグラウンドの土がこぼれ落ちる。ああ、砂だ。さらさらと手から逃げていくのは砂だ・・・。太郎は、いつもの見慣れた浜にしゃがんでいた。握られたわずかな浜砂。すべてこぼれ落ちた。潮の香り。背中で繰り返す懐かしい波の音。
 やりたいことをやれ。
「逃げていたのだ、俺は。暇で毎日浜辺をほっつき歩き、亀を助けたり、竜宮城を夢想したり、ろくに仕事もしねえで、ニートのぬるま湯に浸っていた」
 ゆっくりと立ち上がる太郎。手を打ち鳴らし、両手の砂を落とす。
「親ももう死んだ・・・昔の友もいなくなっちまった・・・。今始めなければ、気付いた時には白髪白髭のじじいになってしまっているだろう」
 浦島太郎、31歳、空に星の残る暁の浜辺を、潮騒を背に、一歩、また一歩と歩き始める。動き始めた街の音が遠くに聞える。誰もいない砂浜には、開けられていない螺鈿の玉手箱がぽつんとひとつ残る。

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