帰り道、それぞれがそれぞれの駅で降り、一人になった私は芥川龍之介の書いた河童の話を思い出していた。河童は母親の胎内にいる際、分娩の直前に父親から「お前はこの世界へ産まれてきたいか、よく考えて返事しろ」と尋ねられ、その運命を選べるという。芥川の小説では、子どもは「僕は産まれたくありません」と返事をしていた。父親の精神病を遺伝していたら大変だし、河童の存在自体を良いと思わないから、と。答えを聞いた産婆が何か細工をすると、母親のお腹はしぼみ、子どもの願いは聞き届けられる。
〈流れる〉と聞いたときから、私はずっと芥川のこの短編が気にかかっていた。電車を降りて一人で歩きながらよくよく考えてみると、どうにも不謹慎かもしれないが、人間の子どもも、実は同じなのでは無いかという考えに行き当たり、はっとした。人間は誰しも、覚えていないだけで、また母親も父親も気が付かないだけで、実はなにか大きな存在から、事前に、「お前は産まれてきたいか」と問われているのではないか? きっと「いいえ」と即答できるのは――そんな勇気があるのは、全体の七分の一ぽっちなのだ。そして、同じく七分の一の人間だけが「産まれたいです!」と希望に満ちて答えることができ、律子さんや早苗さんのようになる。大抵の人間は、突然の質問に産まれたいとも嫌だとも判断のつかぬまま時間切れになって産まれてくる――。残りの七分の五にも目盛がふられていて、七分の一番目が〈すごく産まれてきたい〉者だとしたら、二番目、三番目ごとに〈産まれてきたい度〉が弱まり、七分の四番目がちょうど中間の〈どちらとも言えない〉に値する。そして、私はきっと――産まれたいとも思えないのに、産まれたくありませんとも答えられなかった、七分の六番目の河童なのだ。
この考えは恐ろしい程すんなりと、私の中に落ち込んでいった。
そこから更に数年が経ち、私は二十八歳になっていた。遥と百子さんも結婚して、ほぼ同じような時期に子どもを生んだ。律子さんと早苗さんはそれぞれ、既に二人目の子を育てている。そうなるとお稽古に顔を出せるメンバーも自然と限られてきた。恋人募集中の美穂ちゃんと、既婚男性との不毛な不倫を繰り返す彩さんと、私だ。だけど最近、彩さんの〈出会うのが遅すぎた悲恋〉話に嫌気がさして、私は茶道を休みがちになっていた。いつもにこにこしている先生だって、余計な口を挟まないことを信条にしているだけで、実際は何も聞いていないわけじゃない。話の合い間に、時折、悲しげに眉を潜めているのが見える。一度、「行きか帰りの道でお話聞きますから、せめて先生の前では止めませんか? 先生、心配されてますよ?」と言ってはみたのだが、彩さんは最早周りが見えず、自分の心もコントロールできないようだった。それでますます、億劫になった。真面目で我慢強い美穂ちゃんは、彩さんの愚痴を聞きながら、せっせとお稽古に通っている。だからこのところの参加者は、彩さんと美穂ちゃん、二人きりのことが多い。