小説

『赤と、青と、黄色の』佐久間クマ(『檸檬』)

 3限開始のチャイムが鳴った時、私はまだ美術室の前にいた。なんだかユキちゃんを追いかけるように教室に帰るのが嫌だった。おかげで次の理科の実験は大遅刻。実験室の扉を開け、いじめられっこが遅刻してきた、という痛い視線(被害妄想かもだけど。)を受けた時はせめて間に合うように行けばよかったと数分前の自分を呪った。4人1組で行われていた実験は、リトマス紙をいろんな液につけて、酸性かアルカリ性かを判別する化学の定番の実験だった。後から来た私がもう出来上がった班に「入れて」というのは塩酸を飲むことよりも苦しいことだった。だから私は机の端に転がっていた、班に1つ配られたレモンを右に左にただ黙って転がすことしかできなかった。右にころころ、左にころころと転がるレモンを目で追うと、自然とその先で短いスカートをゆらつかせながらキャッキャと実験する女子高生のふとももが視界にちらつく。それが妙にイケナイものを見ているような恥ずかしい気分になり、焦点をレモンの方へと移す。レモンを近くで改めて見てみると、その凹凸や月面のような表面の穴が妙にイヤラシく見えてきて私の思考回路はいよいよおかしくなってきたのかもしれない。だからお得意の気怠げポーズをとるために、おでこをコツンと黒い机の上にのせてみる。薬品の匂いよりも、あまり丁寧に洗われていないぞうきんのような匂いの方が鼻についた。不快だ。また周りのクラスメイトの会話が耳に侵入しようとしたとき、私の耳は別の声で遮られた。
「ねえ。実験しないの?」
 声をかけてきたのはユキちゃんだった。
「私の班、誰も実験してないからこっち来て実験したら?」
 ユキちゃんの班はみんな自分の友達のもとにおしゃべりに行っているのか、だれも席についていなかった。私は少し迷いながら、でも断る言葉も見つからなかったので、座っていた木の椅子をユキちゃんの席へと移動させた。

 
 実験や自習のたぐいは私にとって孤独を潰すことに必死の時間だった。しかし今、私の前にはユキちゃんがいる。なぜ私を実験に誘ったのか。ユキちゃんもこの孤独な時間に耐えきれなかったのだろうか。それともただ単に私と喋りたかったのか…。どちらにしてもユキちゃんとの沈黙に耐えられなかったので、レモン汁と書かれたビーカーの液を駒込ピペットと張り紙のされたスポイトで吸い上げ、青色のリトマス紙に、ぽたんぽたんと2滴落としてみた。赤色のリトマス紙はまるで魔法の液体が落ちてきたかのようにその赤色を青色へと変化させていく。
「7.6パーセント。」
「え?」
 リトマス紙がちょうど赤と青の半分の色で分かれた時、ユキちゃんはふいに呟いた。
「何の数字だと思う?」

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