小説

『ヴロンド・ウィナース』鈴石洋子(『絵本百物語』より狐者異、「私の直江津」、「古老が語る直江津の昔」)

 と耳打ちした。さよは、とっさにぎこちない作り笑いを浮かべたが、瞬く間に顔が赤らんでいった。小林はお構いなしで、
 「月曜の三時、北星座においで。君の自由さ」

 浜を見渡せる空き地に潮風が吹き上げていた。
働きに出た母たちの姿はすでに遠のき、熱砂に霞んで見分けがつかない。水平線と空のあわいで、短命な夏の生彩が醇化している。
 さよは息を吸い込んだ。心はウィナースの虜だった。別の世界に連れ去られたさよの目に、海の美しさは映らない。賢二と小林に出くわした夕方以降、落ち着かない心持ちのまま過ごしていた。
 女優が浮かべる愁いのためか、それとも小林が耳打ちしてきた「こっそり」という言葉のせいか。
 誘われた北星座には行ったことがなかった。
 チラシを見た時。さよは近づいてはならない匂いを嗅ぎ分けた。危険や不良とは違う。ゆらりと漂ってくる。ヴロンド・ウィナースは誘惑の化身だった。これは大人のものだと思った。
 賢二が一緒にいたとはいえ、知らない大人の小林から誘われたのも問題だった。黙って試写に出掛けるのは、母と父を裏切ってしまう悪いことに違いない。後ろ暗さにつき纏われ、さよは気を静めようと空き地にやって来た。考えるほど胸が騒いだ。
 「おらは行ってはいけない。子供だから見てはならない」
 その時、ひと際強い一陣に煽られて、誓いは、試写の月曜日を待ちわびる夢見心地へ反転してしまった。さよは面食らって堪らず駆け出した。小路を抜け、長い石段をひと息で駆け、上りきって今度は一段飛ばしに下り、広い道に出ると全速力で大通りまで突っ走った。汗が噴き出す。文やは目に入らず、カフェの音楽も聞こえず、人の往来はないに等しい。
 とうとう大きな商家の前で苦しくなり、急停止した。両足を突っ張り、地面を睨みながら呼吸を整えた。それでも心の燻りはどうにも始末がつかない。さよは途方に暮れた。
 とぼとぼと、大通りから脇に逸れ、抜け絵がある路地に差し掛かった。みすぼらしい家々の隙間で、碧海が光輝を放っていた。
 そんでもあれか、さよは自分に語りかけた。
「ちった行ってみるか。三十分と決めて見てみるってもんか」
 そうひらめいた途端、頭に血が上っていたはずが、あまりにあっけなく凪いでしまった。さよは自分のことながら拍子抜けした。
(あと二日)

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