小説

『ヴロンド・ウィナース』鈴石洋子(『絵本百物語』より狐者異、「私の直江津」、「古老が語る直江津の昔」)

「すぐ裏行って呼んできますし」
 賢二は母屋へ向かうのに下駄を引っ掛けながら、
「今のは俺とさよちゃんとぶんちゃの秘密だぞ。明日になったら教えるすけ、よそで言わんでね」
 頭を掻きつつ駆けて行った。さよが「見た?」と声を出さずに聞くと、文太郎が頷いた。
 賢二の母と馴染みの年寄りは、互いの用事を伝え合った後も軒先で話し込んでいた。さよは、賢二が戻ってくるなり、
「今日は入り江に行って底歩きをしました」
 生真面目に報告した。賢二は、そりゃ何よりだと垂れ気味の目を細めたので、柔和な印象がいっそう際立った。ふと、
 「さよちゃんの名前はどんな漢字書くんだや?」
 尋ねるともなく呟くので、仮名ですとさよは答えた。
「漢字なら、小さい夜と書いただろうな」

 内田文治の家にはひと月と空けず大工仲間が酒盛りのために集まった。顔ぶれは決まっていて、最も年配の大工は後藤作治という。口達者ではないが、興が乗れば十八番を語り始める。
「震災の後の片付けで、ここの女衆が百人も借り出さんた。でっけえ荷をば背負って歩いたすけ、東京の人はたまげたってね。そりゃおまん、一人十三貫だでね? あれが女かせったって」
 作治に続き、トメちゃと呼ばれている文治の幼なじみの留夫が、
「男は面倒だのどこが痛いだのせって、すぐ逃げるけも、女は辛抱すんねかね。それも荷役の女衆となりゃ、日本一の働きもんだ」
 三人の幼子を持つ若手の今井権蔵は、根から陽気で、
 「おらん家はうまいごと調子ば合わしてさね。“へへぇ、かか様、まったくその通りでございますね”と機嫌をとる。だって怒ればおっかねんど、おらかちゃばっかしゃ」
 どわ、と場が沸いた。
 文治が豪快に笑うことはほとんどない。顔を綻ばせ、大きく何度も頷けば、それは上機嫌でいる証拠だった。
 酒盛りの晩は、父の胡坐の中がさよの特等席になった。前に、さよが飽きて駄々をこねた時、文治が突然、
「うっせぇ。名古の裏に捨てるぞ」
 と哮った。さよは青ざめて硬直してしまった。名古というのはまちの総合病院で、「又又!非道の置き去り」と新聞に大見出しが踊る年もあるほど、乳児の置き去り事件が度重なった。駅から徒歩十分という立地もあり、遠方の女が捨てに来るのだと噂が広まった。

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