そうさ非国民だ、と留夫がわめいた。その時、
「おら、この前、見と」
後藤作治が言った。「いつだ?」と一同が色めき立った。
「ひと月経たんな。正月明けてじきだったすけ。マル羽の父ちゃから、母屋の庇をば直しに来てもらわんねえかせって十二月の半ばに頼まんたんだけも、結局、年明けになった。大雪にでもなりゃ厄介だろね?だし、この日と決めてさね。昼過ぎには別の用事もあったすけ、朝早く出かけたんだ」
一月初旬のまちは、煤色の雪雲が低く垂れこめ、夜が明けても陰気に暗い。作治は道具箱を抱え、マル羽醸造場へ向かった。
名古病院の裏を過ぎた時のことだ。
ズー、ズーと鈍い音が聞こえてきた。
前方に人影がある。目を凝らすと、何かを引きずっていた。布袋の口を縛り、それを縄で引いている。前のめりになっては立て直し、足取りが心許ないが、年寄りにしては上背がある。
今日に限って浜風がなく、鳥の囀りも聞こえない。平素からひっそりと暗い病院裏に、布袋を引く音だけが反響する。じきに追いついてしまうがどうしたものか、のらりくらりしていると、突然、人影が立ち止まった。反射的に作治もその場で固まり、息を殺した。
影はじっとして動かない。こちらの存在に勘づいたのかもしれない。思念か邪気か、今にも迫ってくるようで、足首から悪寒が這い上がる。心拍が早鐘を打つ。堪らず回れ右をし、近場の路地に逃げ込んだ。回り道だが、そんなことよりあれを避けなければならない。息が上がる。一刻も早く遠ざかりたかった。
死ぬ思いで大通りまで出た時、ようやく息をつくことができた。
羽村家に到着すると、作治はあらかじめ聞いていた納戸から梯子を出してきて、支度を整えた。
母屋の庇の具合を見ていた時だ。
「また聞こえたんさ。あの音。ズー、ズーと。肝冷えたこて。大きい蔵あんだろね? そこへ入っていく姿をおら見たんだ」
肩を激しく上下させ、賢二とは似ても似つかない男が一人、布袋を引きずっていた。骨と皮になった体を夏着のような薄い単衣でくるんでいたが、胸元ははだけ、鎖骨が浮き出ていた。眼窩は窪み、生気は失せ、眼球だけがぎょろぎょろとしきりに動く。難儀そうにあえぎながら蔵の中へ消えていった。
「強欲の化けもんのようだった」
作治は傍らの手あぶりに目を細めながら、そう呟いた。