小説

『hallacination』霧夜真魚(『赤い靴』アンデルセン)

〈ええ、辛いわ。でもあなたとは行かない〉
〈おいでったら。もう、誰もいないよ。みんな、行っちゃったから〉
妻ははっとした。
〈誰も……いない?〉
〈あの時の“かくれんぼ”と同じ。置き去りにされちゃったのよ〉
あの時――5歳だった妻は、母に言われるままクローゼットに隠れて、十を数えながら待っていた。見つけてくれるまで静かにいつまでも待っていた。しかし、母が来ることはなかった……。
〈私は、あの時のままなのね。暗くて、狭くて、怖い、あのクローゼットに閉じこめられた時のままなのね。あそこから一生、出られないのね〉
〈だって、鍵がかかっているんだもの〉
妻はがっくりと項垂れる。
〈おいでよ。こっちは楽しいよ〉
妻はゆっくりと顔を上げた。波間に揺れる赤い靴はとても楽しそうに見えた。
〈おいでよ!一緒に楽しもうよ!〉
妻は崖から身を投げた。赤い靴が好きだったからではない。一緒に楽しみたかったからでもない。ただ、妻がそうあるべきだと信じてしまったからだ。小さな、美しい碧色の湖で、妻と赤い靴は互いを求め合うように離れずに漂っている。

「奥さんに間違いないですか」
警察に聞かれて、夫は頷いた。妻の亡骸が湖に揺れている。夫が贈った赤いハイヒールを履いて。その両足を切断して……。
「なんでこんな所で命を絶ったんでしょうね。何か身に覚えがありますか」
「昔、来たことがあるんです。この先に別荘があって。バーベキューして……」
夫は力なく、漂う妻の亡骸を見つめながら答えた。警察に呼ばれて踵を返そうとした時、赤い靴が意志を持って動いたような気がして、さっと振り返った。湖面を赤い靴がゆらゆら揺れている。見間違いだ、きっと……夫はその場から去って行った。赤い靴は波に抗って揺れている。
〈待っていてね。すぐあなたの元に行くからね。〉

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