小説

『hallacination』霧夜真魚(『赤い靴』アンデルセン)

〈もう、あの女性は星を見ることもできないんだわ。〉
水死体は醜くなると聞いたことがある。波間に漂う女性の顔が湖に溶けてしまうのを想像して、やりきれなくなった。その時、背後からヒールの音がした。背中がヒヤッとする。空耳?コツン、コツン――確かにヒールの音が近づいてくる。妻は金縛りにあったように、逃げることも振り返ることもできず、ただ、必死に心の中で謝り続けた。
〈ごめんなさい!ごめんなさい!あなたを一人ぼっちにしてしまって!〉
しかし、懺悔は聞き入れられず、ヒールの音は妻の真後ろで止った。すぅっと風が頬を撫でるようによぎると、赤い靴が妻の前に躍り出た。ぎょっとした。くるぶしで切断された両足が赤い靴を履いている……赤い靴と足は一心同体といったように離れないようだ。突然、赤い靴が軽やかにステップを踏みだす。ダンスでもするかのように楽しそうに。赤い靴は妻を誘うように、くるくる周りながら、前方の森へと向かう。妻は催眠術でもかけられたように立ち上がると、赤い靴についていった。

森は発光していた。蛍の大群が森を覆っているかのように光り輝いている。妻は赤い靴に誘われるまま、その森へ入っていった。
〈行っちゃだめ!行ったら取り返しのつかないことになる!引き返すなら今よ!〉
妻の脳裏に今までにないほどの大音量で警鐘が鳴り響く。しかし、抗えない。赤い靴は楽しそうに妻を誘いながら歩いていく。

少し歩いていると、目の前に女の子が立っていた。五歳ぐらいだろうか。妻の手をとって引っ張る。
「行こう」
「どこへ?」
「ヒミツの場所」
女の子は妻をまっすぐに見上げて微笑んだ。疑うことを知らない純真な、愛にあふれた瞳に、もし子供がいたら、こういう感じなのかなと思い、胸がうずいた。
どのくらい歩いただろうか。森から光が消えると、一軒家が現れた。
「入ろう」
「あなたのお家なの?」
「知ってるくせに」
「え?」
「かくれんぼよ!私を見つけてね!」

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