小説

『夢みるピアノ』草間小鳥子(『ピアノ』)

 目を閉じたまま、わたしは思いを巡らせます。低音の和音からはじまる嘆きから、春のワルツのような明るさ、ふたたび激しい嵐が行き過ぎ、最後は…最後は、なんと現したらよいのでしょう。
 最終小節の和音を丁寧に奏で、わたしは鍵盤から手を離しました。
 世界が戻ってきます。
 さくらの拍手、割烹着のお姉さんがティーカップを洗う音、竹林のそよぎ、校舎から響いてくる部活動の歓声……。
 ところが、目を開けて飛び込んできた景色に、わたしは目を疑いました。
 さくらも、割烹着のお姉さんもいません。足もとの絨毯は色あせ、石造りの壁は黒ずみ、螺旋階段はところどころ踏み板が外れています。
 あわてて椅子から立ち上がると、ガチャリと音が鳴りました。かかとの横に転がっているのは、欠けたティーカップ。
 そしてピアノは、目の前にありました。
 鍵盤の目にはびっしりとほこりが詰まり、白鍵は黄ばんでペダルは錆びています。黒のメッキはところどころはがれ、木目がむきだしでした。譜面台は傾き、今にも落っこちそうです。おそるおそる鍵盤に触れてみましたが、沈みこんだまま音は出ません。黒鍵を思い切って強く押してみると、大きな音が鳴り響きました。
 わたしは驚いてお屋敷……いいえ、廃屋から飛び出すと、竹林をかきわけ、裏門を走り抜けました。いつまでもいつまでもあのピアノの音が追いかけてくるようで、振り向くことはできませんでした。

 「オクターブも、よく練習してきましたね」
 ピアノの先生が、『幻想即興曲』の譜面に赤鉛筆で二重丸をつけてくださいました。
 「もうすぐ音楽祭なんでしょう。『ユーモレスク』をやりましょうか?」
 わたしはうなずきましたが、あの日から気持ちが浮ついています。重苦しかったユーモレスクが、今度はふわふわと迷子のような演奏になってしまいました。
 先生が首を傾げます。
 「いつもとてもたのしく弾ける曲なのに、どうしたのかしら。何かあったの?」
 ピアノは、正直です。
 たのしい気分の時はたのしげな演奏に、かなしい時は、かなしげな演奏に。もちろん、プロのピアニストなどはどんな気持ちの時でも、最高の演奏をするのでしょうが。

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