小説

『3番ホームで』宮本ともこ(歌舞伎『勧進帳』)

「ええ。県知事の先生とご一緒でした。視察の日ですよ」私は手袋をはずし、県知事に右手を差し出した。
「その節はお世話になりました」
「いえ、こちらこそ」長兄は胸を張った。どこまでも、偉そうだ。
 だが、長兄は私の握手を拒まなかった。してやったり。私は端末機を脇の下にはさみ、両手で長兄の手を握って彼を動けなくしてしまった。大学生は偶然、声をかけた相手が有名人と知って喜んだ。そして、私と長兄に向かってスマートフォンのレンズを向けた。
「写メ撮って、いいですか?」
「一枚だけですよ」長兄は市民に愛される政治家のふりを装った。
「俺、政治家と初めてしゃべっちゃった。俺も、握手してもらいたい」
「俺も、俺も」
「キミたち、どこの選挙区?」
 狭いボックスシートの中で、長兄は大学生たちに囲まれてしまった。その隙に私は慶子に合図を送った。手で空気をかくようにして、早く行けとうながすが、慶子は肘掛に身を乗り出したまま、ぼんやりしている。ふたりはようやく席を離れるが、今度は経義が慶子を呼び止めた。腰に手を回し、耳元で何か囁いた。慶子は経義の手を払いのけ、向かい合って、彼に詰め寄った。

 その後はスローモーションのように思えた。

 長兄が通路に躍り出て、経義に振り返った。
 経義の背中越しに、慶子の顔が半分だけ見えた。慶子は眉間にシワを寄せ、ルイ・ヴィトンを床の上に落とした。
 経義が慶子の腕をつかみ、慶子は振り払おうとしてもがいた。
 長兄は手足を棒のように硬直させたまま、一歩一歩、大股で経義の背中に近づいた。私は長兄の後を追った。
 慶子が私を見た。私は慶子の味方だと、テレパシーを送った。
 すると、慶子の目に生気が宿った気がした。
 だが、時すでに遅く、長兄が背後から経義の肩をつかんだ。経義は肩をくゆらせ、その手を振り払おうとした。

 と、その時……。慶子が悲鳴をあげた。

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