杯を重ねて、伊藤さんは饒舌になっていった。彼はそれからも、一帯の伝承や奇談を思い出すまま談じた。山奥で死者の叫びを聞いた者の話も出たし、死んで鳥になった姉妹の話もあった。ある家の親爺が死に、亡霊となって娘をつれにきたということも聞いた。
聞きながら、私は先ほどの風の味を思い出していた。あれはむしろ、この遠野郷そのものの味だ。あの薄氷を思わせる味。生者と死者が、人と人でないものが、常に近いところ。その両者の境界が、あまりに薄いところだ。
不意に、伊藤さんの話が止んだ。彼は真っ直ぐに、私の顔を凝視する。
「僕は、ここに帰って来て良かったと思っています」
彼の顔は上気し、眼は少しく血走っていた。
「東京にはない自然の息吹を感じる。伝説や幻想に彩られた故郷を肌で感じる。とても創意を刺激されます。それに、こうしてあなたと二人、静かに話が出来る」
伊藤さんの手が持ち上がる。それは私の頬を目指しているらしい。
伊藤さんが私に惚れているのは、以前からわかっていた。私もそれで、悪い気はしていない。だからこうして招きもしたのだ。しかし今夜は、あんな話をした後は、伊藤さんの顔の赤さが、たまらなく嫌なものに感じた。
外では変わらず、風が吠えている。雨も強くなったらしい。びしゃびしゃ、と、どこかで水がこぼれ落ちる音が混じる。この部屋も湿気が増している。伊藤さんの顔には目に見えて汗が滲んでいる。そして私の背筋は先ほどより増して、冷たくなっている。
「帰って来る、と言いましたね」
「え?」
「妹が帰って来ると伊藤さんは言った。恐ろしいことを言いました」
「恐ろしい……とは」
伊藤さんは話を逸らされたことに不満顔となった。私は窓が閉まっていることを確認して、伊藤さんに視線を戻した。
「お教えしましょうね。あの風の夜、私は、見ていたのです」
そう、あの風の夜、私ははっきりと見ていた。父が泣き叫ぶ妹を強引につれて、六角牛山へ入っていくのを。妹の恐怖に歪む顔も覚えている。酒気を帯びた父親の顔が、天狗のように見えたことも。
二人は山に消えて、明け方に父だけが里へ戻ってきた。妹はそれきり帰ることがなかった。父は神隠しを主張したし、私も村人の前ではわんわんと泣いたが、しかし――
風雨のために、家は、槌で殴られたように揺れた。伊藤さんは目を見開いて言葉を継げないでいる。