小説

『こんな夜には寒戸の婆が』山本歩(柳田國男『遠野物語』)

「河童?」
 私は聞き返した。頭には伝承に聞く河童の姿が浮かぶ――人間の子供ほどの大きさの、ぬめぬめした生き物が、淵から這い出てくるのだ。頭頂には皿を持つ。遠野の河童は、赤い体色をしている。手足には水掻きを持ち、指は猿のようだと言う。
「生まれた時、僕は河童だったんですよ」
 空想の中で、赤河童と対峙しながら、私はそっと彼の頭に目をやった。そこにあるのは、どちらかと言えば豊かな頭髪で、もちろん皿など見えぬ。伊藤さんは微笑んだ。
「僕は花巻の生まれです。釜石街道の外れで、すぐ傍に猿ヶ石川が流れていた」
 私は猿ヶ石の流れを思い出した。広く豊かな川だ。底には砂や小石も多いが、鮎も山女もいる清流。夜には地獄のように濁る。夏には名も知らぬ赤い花が咲き乱れ、冬には霜の立つ河原。時により、うねうねと姿を変える様は生き物めいて、その川面は、そう、ちょうど大山椒魚を連想させた。
 流域には河童の伝説が数多く残る。私が川を思う間、伊藤さんは目を細め沈黙していた。まるで私の回想の中の猿ヶ石を、ねめつけているようだった。
「僕の母は河童に犯された女だ。汚れた女だ」
 伊藤さんは再び口を開いた。私は蕗味噌を口にした。味噌が辛すぎた。舌に痛いほどしみた。
「なかなかの家柄だったということだが。それで母上様も色の白い美人であったらしいが。いつからか、毎夜のように、河童が」
「河童が……」
「寝室に忍んできたと。色々と見張りを立てたり部屋を移したりしたそうだが、そこはそれ、河童だもの。ずる賢くてね。甲斐なく母は孕んだのです」
 それが僕です。伊藤さんは焼酎を仰いだ。た、たん、窓の外で細かい音がする。雨まで降り出したようだ。たたん、たた、たたたたたた。
「河童の子は殺されねばならぬ。花巻にも遠野にも、そんな話がたくさんあるでしょう。河童の子は、人間には育ちません。すぐに殺されなければならなかった……」
 確かに、そんな話も、あった。遠野郷には河童の出没することおびただしく、孕まされた娘も多くいた。生まれた子はどこか違うとか、人の形をなしていないとかで、すぐに切り刻まれて埋められる。畑に、林に、河原に、桶に無造作に入れられた肉片が、それはもう、埋まっているのだと言う。土の中に異類の子どもたちが、それはそれは、潜んでいる。

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