まるで寒戸の婆が帰って来そうな夜だ――
遠野郷の人々は、風の烈しく吹く夜には決まってそう言う。六角牛の山肌を震わせ、杉や白樺をぴいぴい泣かせて降りてきた風が、草っぱらを殴り、田を踏み越えて、鋭くなって窓や戸をどんどんと突く、そんな夜には決まってそう言う。
窓の外には何も見えない。寒い闇が張り付いているばかりだ。私は食卓の前に座して、風の音を聞いている。ひいー、ひいー、と微かに響く悲鳴のような音。これからもっと大きくなるような予感がある。窓が、戸が、ぐらぐらと揺らされていた。
「ああ、なんて風だ」
伊藤さんはあえぐように言った。外はさぞ寒かろうに、この人はしきりに手で顔を扇いでいる。伊藤さんは昨晩、汽車でこちらに着いた。「久しぶりに故郷の景色を詠んでみようと思います」気鋭の歌人と称される伊藤さんから手紙を受けて、それではと招待した。かく言う私はひと月前から、かつて暮らしたこの家に戻って来ている。
卓上には、貝のウニ和え、馬刺、生のワカメ、刻んだ蕗の薹と味噌を混ぜたもの、砂肝など並んでいる。伊藤さんが注いだ焼酎の匂いが、そこに加わる。
蕗味噌などは、よく母が作ってくれた記憶がある。酒好きの父のために、何かとこうした肴の類が食卓に並んだ。
母は私が七つの頃に姿を消した。前触れがあったわけではない。ただ、ある豪雪の朝に、父から聞かされただけだ。お前らの母ちゃんは出てったぞ。もう戻っちゃ来ない。
以来、父の前から肴は消えた。彼はただ、毎晩毎晩あぐらをかいて、ひたすらに酒のみ口にしていた。そうして始終、苛々としていた。私と妹は、隣の部屋からそれを覗いていたのだ。時折こちらを振り返る、父の顔は、それは、それは、赤かった。
「窓、開けていいですか」
そう言いながら、伊藤さんが立ち上がり、窓枠に手をかけた。
「雨風が吹き込みます」
「ほんの少し」
「寒いですわ」
「暑いんですよ」
すっと窓が引かれると、途端に風が、次いで雨粒が飛び込んできた。部屋の隅に立てかけていた箒が、がらんと倒れる。部屋中を駆け巡る風の姿が、目に見えるようだった。水の匂いに混じり、草の香りがする。木と、ぐずぐずに腐った果実の臭気。風が山から匂いを運んできた。