小説

『こんな夜には寒戸の婆が』山本歩(柳田國男『遠野物語』)

「嫌な夜だ」と父は時折口にした。決まって風の烈しい夜に。そう、今夜のような。
 こんな夜には――言いかけて、私は口をつぐんだ。伊藤さんはそんな私を怪訝そうに見たが、ややあって「ああ!」と手を叩いた。
「こんな夜には、寒戸の婆が帰ってくるな――でしょう」
 窓に顔を寄せながら、伊藤さんはそんなことを言う。私が先ほど口元に留めた言葉だ。
「年寄りからよく聞かされました。懐かしいな」
 伊藤さんは本当に懐かしそうに言う。彼は上京して八年、初めて帰ってきたと言っていた。私の方はこの十年、一度も懐かしいなどと思ったことはない。雑誌の投書が見初められ、閨秀作家と煽てられたのを幸い、東京、名古屋、大阪と点々とした。それらの土地の方が、私にはよっぽど馴染み深い。
「寒戸の婆ですね。神隠しにあった人間が、風の夜に帰ってくる、と」
「ああ、よしましょう」私は一瞬で冷え切った手を、激しくさすった。

 なんでも百年以上昔の話だ。松崎村寒戸の民家に、若い娘がいた。妙齢であったようにも聞かれるし、あるいはほんの七つ八つであったとも言われる。ある冬の厳しい寒さの日、娘の姿が見えなくなった。家族は暗くなるまで探したが、いっこう見つからない。鋭い風が吹いていたという。家の前にあった梨の巨木が、がさがさ乾いた音を立てていたという。闇の中に、赤い鼻緒がぼんやり浮かび上がっていた。娘の履いていた草履が、梨の根元に並べられていた。近在の者は、神隠しにあったのだと噂したそうだ。
 それから三十年たった。その日もうんと寒い日で、烈しい風が家屋をどんどんと順繰りに叩いていた。折しも親戚一同が集まった宴の夜、訪ねてきた者がある。その者は力なく、とんとんと戸を叩いた。醜く老いさらばえた老婆が、ぼろをまとって戸口に立っていた。
 老婆は言った。自分はかつてこの家の娘であった者である。あの寒い日に消えていった女である。
 面影はなかった。顔には深い皺が幾重にも刻まれ、肌は土の色をして、表情を変えれば崩れてしまいそうなほど堅い。腕も脚も枯れ枝のようで、全身ほとんど古木のようであったと言う。
 どこへ行っていた。どうやって帰ってきた。問う親族に、老婆はたった一言、こう答えた。皆に会いたいがために戻ってきた、と。
 一族の元気な姿を見た老婆は、「さらば、また行かん」とて、留まることなく再び去っていった。闇と寒風に紛れて、その後ろ姿は、瞬く間に消えたと言う。

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